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現宰相の人物像 ③ [続・友よ、戦争をしない世界を創ろう!]

〈国家主義〉

 このブログを読んでくださっている奇特な方が、アベさんのことを長々書いているので辟易なさっていることは薄々?わかります。「まだ書くの?」と思われていることでしょう。これが最後です、アベさんの人物については。
 どうしても彼の「国家主義」については触れておきたいのです。こんなためらいのない国家主義者も珍しいと思いますので。

 「国家主義」はWikipediaによりますと、
【国家主義(こっかしゅぎ、英: statism ステイティズム、仏: étatisme エタティスム)とは、国家(≒政府)を第一義的に考え、その権威や意志を第一だと考える立場のこと。】とあります。さらに
【大辞泉によると、国家主義とは、国家を、「最高の価値あるもの」とか「人間社会の最高の組織」などと見なし、「個人よりも国家に絶対的な優位性があるのだ」などとする考え方である。ブリタニカ百科事典によると、国家主義とは「国家に至上の価値がある」などと主張して、国家的な秩序や、国家による命令、自分の属する国家が軍事的に強いことなどを他の全ての価値に優先させようとする政治的な主張を指す。 国家主義的な立場をとる者、そのような思想を持つ者を「国家主義者」と言う。

国家主義は保守的なイデオロギーのひとつである。特に近代化に乗りおくれた20世紀のドイツや戦前の日本で隆盛をきわめた、とブリタニカには記述されている。反意語は、世界やイギリスなどの西欧諸国を中心とするという意味合いの、「グローバリズム」である。(グローバリズムとは、グロブブリテインを中心とした、という意である事から)

自国国家を至上におくという考え方であるがため、国家内での価値の共有などは国家を形成するにおいて重要ではあるが、(国家の利益を個人の利益に優先させるので)全体主義的な傾向があり、偏狭な民族主義や国粋主義になりがちであるとされる。】と【概説】にあります。

 国家というか、国と個人の関係を、宰相自身はどう捉えているかというと、御著書『美しい国へ』の【第二章 自立する国家】につぎの件があります。

【個人の自由と国家との関係は、自由主義国家においても、ときには緊張関係ともなりうる。しかし、個人の自由を担保しているのは国家なのである。それらの機能が他国の支配によって停止させられれば、天賦の権利が制限されてしまうのは自明であろう。】だから個人の権利は天賦ではなく、国家が保障するからこそ存在するのだというスタンスです。固有の権利ではなく、施してやっている自由にすぎないというのです。
 また、つぎの記述もあります。
【外国旅行で私たちが携帯を義務づけられているパスポートには、外務大臣の署名で、「日本国民である本旅券の所持人を通路支障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する」
 との文言が明記されている。
 これは、所持者であるあなたが日本人であることを、日本国家が証明し、外国における権利を日本国家が担保するという意味である。いうまでもなく、そこでは、どこの国に属しているかということが極めて重要な意味をもつ。わたしたちは、国家を離れて無国籍には存在できないのだ。】

 国というのがいかに大切かということを読者に伝えている訳ですが、そんなことは小学生でもわかることではありませんか?国なんかいらないと大勢が言っているとでも言うのですか?主権の及ばない地域に行くときには、そちらを統治する機関に国が発行する身分証明書を持っていく、あまりにも当然の話ではないですか。「だから偉いのは国であって、個人ではない」という価値観の話ではないでしょう。日本国が立派な国であって、多くの国から尊敬されているということを望まない日本人は極めて少ないでしょう。
【国民がパスポートをもつことによって国家の保護を受けられるということは、裏を返せば、個々人にも、応分の義務が生じるということでもある。】
 はいはい、おっしゃるとおりであります。

 こんなことも書かれています。
【国家権力は抑圧装置であり、国民はそこから解き放たれなければ本当の自由を得たことにはならない、と国家と国民を対立した概念でとらえる人がいる。
 しかし、人は他人を無視し自ら欲するまま、自由にふるまうことが可能だろうか。そこには、すべての要求が敵対し、からみあう無秩序社会 ― ジャングルの中の自由があるだけだ。そうしないために、近代社会は共同体のルール、すなわち法を決めた。放埒な自由ではなく、責任を伴う自由を選んだのである。】
 法の基が憲法であることをお忘れなければ、これもおよそおっしゃるとおりであります。しかし、個人の自由か、国の統制かの二択をしているわけではないのです。国は現に存在するし、国にまったく頼らず個人で生きることも不可能に近いのです。要は、国の秩序や権限や命令が何を置いても大事なのかそうではないのか、そこが焦点なのです。
 国の存在と発展そのものが大事なのか、国民の生活や人生の充実のための便法なのか、そこが問題なのです。

 前者を尊しとする人もいますが、これは明らかに間違っています。なぜかというと、国は人が集まって作った組織です。紙に書いた権限の図です。虚構、虚像です。一方、個人は一つの命を持った実体です。
 組織は虚構といえども、個人を呑み込み、つなぎ、動かしますから巨大な力を発揮します。大蛇やドラゴン、恐竜のようになります。
 この巨大似非生物が、それ自身を生き物と勘違いし、自らの欲求を満たす活動を始めると、大変な禍が起こります。どこに起こるかというと、まずは自らの内に向かって、お前たちの生命活動より、全体としての国家(つまりワシ)の命運が大事だと、国民に無理を強いるようになります。実体である国民の生活を歪めるようになります。
 ついで、近所の巨大似非生物と、必ずいざこざが起きます、覇権を争うようになります。なぜなら、どちらも理屈を塗りたくって、似非生物がいかに似非ではなくて、個人の存在を超えた由緒正しい価値ある生き物であるかを理論武装しているからです。近隣諸国とは格が違うのですから、衝突せざるを得ません。

 こんな国家主義を隠すこともなく高らかに宣言してはばからない人が宰相を務め、憲法の改正を企んでいるのです。

 取り急ぎ更新します。ご訪問に感謝します。



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現宰相の人物像 ② [続・友よ、戦争をしない世界を創ろう!]

〈宰相の歴史観〉

 その一端は、自身の著作『美しい国へ』に表れています。
 『美しい国へ』については本ブログでは、
http://mo-mo-taro.blog.so-net.ne.jp/2014-08-07
以降で取り上げています。また拙著『友よ、戦争をしない世界を創ろう!』では、第三章で取り上げています。

 その『美しい国へ』の【第一章 私の原点】の中に【その時代に生きた国民の目で歴史を見直す】という一節があります。そこに次のように書かれています。(『美しい国へ』安倍晋三著・文藝春秋発行より引用)

【その時代に生きた国民の目で歴史を見直す】

【歴史を単純に善悪の二元論でかたづけることができるのか。当時の私にとって、それは素朴な疑問だった。
 たとえば世論と指導者との関係について先の大戦を例に考えてみると、あれは軍部の独走であったとのひと言でかたづけられることが多い。しかし、はたしてそうだろうか。
 たしかに軍部の独走は事実であり、最も大きな責任はときの指導者にある。だが、昭和十七、八年の新聞には「断固、戦うべし」という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化するなか、マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか。
 百年前の日露戦争のときも同じことがいえる。貧乏生活に耐えて戦争に勝ったとき、国民は、ロシアから多額の賠償金の支払いと領土の割譲があるものと信じていたが、ポーツマスの講和会議では一銭の賠償金もとれなかった。このときの日本は、もう破綻寸前で、戦争を継続するのはもはや不可能だった。いや実際のところ、賠償金をとるまでねばり強く交渉する力さえすでになかったのだ。
 だが、不満を募らせては国民は、交渉に当たった外務大臣・小村寿太郎の「弱腰」がそうさせたのだと思い込んで、各地で「講和反対」を叫んで暴徒化した。小村邸も暴徒たちの襲撃にあった。
 こうした国民の反応を、いかにも愚かだと切って捨ててもいいものだろうか。民衆の側からすれば、当時、国の実態を知らされていなかったのだから、憤慨して当然であった。他方、国としても、そうした世論を利用したという側面がなかったとはいえない。民衆の強硬な意見を背景にして有利に交渉を進めようとするのは、外交ではよく使われる手法だからだ。歴史というのは、善悪で割り切れるような、そう単純なものではないのである。
 この国に生まれ育ったのだから、わたしは、この国に自信を持って生きていきたい。そのためには、先輩たちが真剣に生きてきた時代に思いを馳せる必要があるのではないか。その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる。それが自然であり、もっとも大切なことではないか。学生時代、徐々にそう考え始めていた。
 だからといってわたしは、ことさら大声で「保守主義」を叫ぶつもりはない。私にとって保守というのは、イデオロギーではなく、日本および日本人について考える姿勢のことだと思うからだ。
 現在と未来に対してはもちろん、過去に生きた人たちに対しても責任を持つ。いいかえれば、百年、千年という、日本の長い歴史のなかで育まれ、紡がれてきた伝統がなぜ守られてきたのかについて、プルーデントな認識をつねに持ち続けること、それこそが保守の精神ではないか、と思っている。】

 現代宰相の歴史観をご覧になって、みなさんがどう思われるかと思い、文字打ちしてみました。いかがですか? 正直、言いたくないけれどお粗末でしょう?
 われわれが歴史を学ぶときは、人類の、日本人の、われわれの祖先の、過去のそれぞれの時代の生き方や出来事を知り、今日までの経過を概略頭に入れ、そこから自分たちの社会の営み方や自分の生き方の参考になることを学びとろうとするわけでしょう?

 ところがこの方の過去を見る眼は【歴史というのは、善悪で割り切れるような、そう単純なものではないのである】であります。だれも端から善悪で割り切ろうとなんかしていないのに、この方の目にはそう映る。なぜそう映ってしまうかというと、【この国に生まれ育ったのだから、わたしは、この国に自信を持って生きていきたい。そのためには、先輩たちが真剣に生きてきた時代に思いを馳せる必要があるのではないか。その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる。それが自然であり、もっとも大切なことではないか。】この気持ちが優先してしまっているからです。

 多くの人は、第二次大戦までの日本の歩みが、日本(および周辺諸国に)に大きな不幸をもたらしたと感じていて、なぜそういうことになったのか、そこを明らかにし、同じ不幸が訪れないように、そこから学ぼうとしているのです。よかれと思ってしたかもしれないけれど、よくなかった。神国だからいつか神風が吹くかと思ったら吹かなかった。とうとう完敗し、降伏したのです。
 この方はその時代を過去の時代として振り返ることができないのです。そのとき、その道を選んだ為政者の、あるいはそれを支持したマスコミや一部国民の、気持ちのままなのです。
「悪と言ってくれるな、この道しかないのだ、これが欧米の帝国主義に対抗する日本の唯一の国の在り方なのだ。みなもそういう受け止め方ができないのか、それがその時代に生きた国民の目で歴史を見直すということだ」
 結局、あの時代と距離感がないのです。歴史として見ることができていないのに、「歴史」を語っているのです。

 それから【過去に生きた人たちに対しても責任を持つ】という表現がありますが、これも、「責任を持つ」ということの意味がわからないからこそ、言えることです。
 また、この方の歴史観では、時の権力者は国民の支持を得ているからこそその地位にあるのだから、その人の決めることはなんでも、善悪を超えて、歴史的に尊重される価値があることになります。「今」を永久化するトリックにはまっています。歴史に裁かれるという認識がないのです。大変危険です。

 本日は以上です。おまけの写真は先日お知らせした「戦争させない!オール熊谷市民アクション」の写真です。今日13時半からありましたが、私は14時から用事があり、受付で資料を300円でいただいてきただけでした。
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ご訪問に感謝します。

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現宰相の人物像 [続・友よ、戦争をしない世界を創ろう!]

《安倍晋三研究を少々》
 現(2016年)総理安倍晋三という人の人物研究を、ここで少々やっておきたいと思います。
〈アベさんの生い立ち〉

 どんな環境で育ち、どこで勉強されてあのような思考の方が生まれたのか、そこに簡単に触れておきたいと思い、ネットで情報を探しました。すると、
『安倍晋三:沈黙の仮面の下の素顔』野上 忠興著という書物があることを知りました。この本に必要な情報があるかもしれないと思い検索していると、次のブログ記事に出会いました。

 安倍晋三の生い立ちから見るその本質―   野上 忠興著『安倍晋三:沈黙の仮面の下の素顔』を読む(1)【 よりによって、安倍晋三本を読むなど、馬鹿らしいと考える人は多いだろう。私自身、知性と教養に欠け、しゃべりが下手で舌足らずな安倍晋三に、人間的魅力など一欠片も感じない。ところが、並の政治家にすぎない安倍が何重にもかさ上げされた評価を真に受け、高飛車な言動や政策を実行している。将来の日本に禍根を残すだけの政治家が、高い評価を受けている奇妙な社会現象こそ、私の関心事である。その生い立ちを知り、歴史観や社会観の浅薄さを再確認し、そういう人物に国の将来を託す過ちを明確にすることに意味があると考えている。それが本書を取り上げる理由である。】で始まる大変興味深い文章です。記事末を見ると
【「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。】とあります。
 著者名は<盛田常夫(もりたつねお):在ブダペスト、経済学者>とあります。
 このまま全コピーして貼り付けても十分読み応えのあるものですが、量的に大きくなりすぎますので、生い立ちの部分だけを切り抜かせていただくことにします。【 】内。省略・割愛部分は・・・で示します。興味のある方はこのサイトにて全文をご覧ください。
アメリカの心配をする暇はない

 ・・・騙した政治家が悪いのか、騙された国民が悪いのか。どっちもどっちだが、アメリカの心配をする暇があったら、日本の将来を心配した方がよい。目先のことしか考えない馬鹿な政治家を抱けば、国は滅びるだけだ。

父母の愛情を受けられなかった幼年・少年時代

 安倍晋三の言動や表情から、人としての情や、心からの思いやりが感じられないのは私だけではないだろう。その態度と発言は、常に、よそよそしく、率直さが感じられない。何事を語っても、気持ちが感じられない。本書は「沈黙の仮面」と形容しているが、安倍晋三に人を欺く仮面や知恵があるとは思えない。彼の言動は素顔そのものである。
 安倍晋三の言動から、感情を表に出すことを憚る意識や、家庭の温かいぬくもりを知らない環境があったのではないかと推測される。人の性格や感情形成に幼年期や思春期の家庭環境、学校環境が影響していることは間違いない。
 本書の著者野上氏は福田派と安倍派の番記者として、安倍晋太郎とも親しかった。本書を描けたのも、安倍家との関係が深かったからだ。安倍家の内情に詳しく、安倍の乳母だった久保ウメから、晋三の幼年期から思春期にかけての家庭状況や精神的発育の状況を詳しく聞いている。日本の政治家の家庭の様子が手に取るように分かる。
 晋三は親の愛情を注がれて育っていない。日本の政治家は、昼夜を問わず、支援者や政治家との付き合いに飛び回っている。安倍晋太郎は子供に愛情を注ぐ時間を削って政治活動に没頭し、母は支援者回りに勤しんでいたから、二人の兄弟の面倒は乳母が見ていた。添い寝をしたのは母ではなく乳母のウメだった。だから、安倍家の親と子供の関係はきわめて冷めたものだったことは容易に想像される。
 もっとも、長男の寛信は最初の子供だったこともあって、両親からそれなりの愛情が注がれたようだが、次男の晋三が生まれた頃には晋太郎の政治活動が繁忙を極め、父母の愛情を受ける機会がなかった。幼児期における親の愛情不足は子供の情緒を不安定にし、人を思いやる感性を育まない。
父母に代わって晋三をかわいがってくれたのは、母方の祖父岸信介である。晋三が父晋太郎より、祖父である岸を慕う原点がここにある。しかし、三男の信夫が生まれてから、この関係も大きく変わった。信夫は生まれて間もなく岸家に養子に出されたからである。岸信介の愛情もまた、晋三から信夫に移っていったのは自然なことだが、晋三には弟に祖父を取られたという意識が芽生えたことは疑いない。
 人としての安倍晋三の心理と感性の形成は、このような複雑な家庭環境に大きく影響されている。
 安倍家の長男寛信と次男の晋三は、性格が対照的だった。冷静な長男に比べ、晋三は口数も少なく、学業成績も良いとは言えなかった。だから、当然、政治家を受け継ぐのは長男だと考えられていた。こういう兄弟関係もまた、晋三の心的形成や精神的な成長に大きな影響を与えた。
 安倍家や岸家を担ってきた政治家は、東大法学部卒のエリートであるが、晋太郎の息子3名は皆、私立大学の付属校に入学し、エスカレーターで大学まで進学した。ただ、兄の寛信は晋三と同じく成蹊大学を卒業したが、その後、東大大学院へ進学した。また、養子に出された弟の信夫は慶応大学経済学部を卒業した。晋三が大学進学を迎えた時期に、父晋太郎は「大学は東大しかないんだ」と、分厚い漢和辞典で晋三の頭を叩くことが何度かあったという。もともと学業を期待されず、偏差値が高いとはいえない付属学校をエスカレートで上がってきた晋三には、とても実現できる目標ではなかった。物心ついてからの晋三は徐々に学歴コンプレックスに悩まされていたはずで、父からの難題は、晋三に東大嫌いのコンプレックスを植え付けただろう。
 そういう晋三が政治家として晋太郎を継いだことには理由があった。無口で目立たない子供だったが、ツボにはまるテーマでは人が変わったように持論を守り、かんたんに引かずに相手を論駁することがあった。そのテーマこそ、尊敬して止まない祖父岸信介が孫に語った日米安保条約の正当性である。生半可に安保条約を否定する同級生にたいして、逆に問い詰め、論破することがあり、同級生を驚かせたエピソードが語られている。
 簡単に首を縦に振らず、納得できないことには絶対に「分かった。ごめんなさい」と言わない頑固さに、父晋太郎が政治家の資質を見たという。事を荒立てないように、簡単に親に謝る長男寛信より、納得できなければ口を固く閉じ、謝らない晋三の方が政治家向きだと考えたようだ。安保法制がいかに不合理だと論破されても、頑なに持論を守る姿勢に通じる。二度も首相の座を射止め、学歴に及ばない兄と弟を出し抜いたことを、さぞかし自負していることだろう。
 もっとも、この程度で政治家の跡継ぎが決められるのかとがっかりさせられる。政治家に求められる資質とは、少なくとも日本ではこの程度のものなのだ。同じ土俵で闘うことを避け、頑なに持論にしがみつくのは、たんに「愚鈍」なだけではないか。

( 初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/ ) 】
 結局、〈父母の愛情を受けられなかった幼年・少年時代〉の節は全部引用しました。

 学歴については、Wikipediaより引用します。
【 生い立ち
1954年(昭和29年)9月21日、当時毎日新聞記者だった安倍晋太郎と、その妻・洋子の次男として東京都で生まれる。本籍地は山口県大津郡油谷町(現・長門市)である。 父方の祖父は衆議院議員の安倍寛、母方の祖父は後の首相・岸信介で、大叔父にはやはり後の首相・佐藤栄作がいる、政治家一族であった。安倍は「幼い頃から私には身近に政治がありました」と回想している。幼い頃は野球選手や刑事になることに憧れていた。
学生時代
成蹊小学校、成蹊中学校、成蹊高等学校を経て、成蹊大学法学部政治学科を卒業した。
小学4年生から5年生にかけての1964年から2年間は平沢勝栄が家庭教師についていた。高校ではクラブは地理研究部に所属。高校卒業後成蹊大学に進み、佐藤竺教授のゼミに所属して行政学を学ぶ。大学ではアーチェリー部に所属し、準レギュラーだった。大学生の頃は人付き合いが良く、大人しく真面目だったという。1977年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、その後イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った。秋に南カリフォルニア大学への入学許可が出され1978年から1979年まで政治学を学んだ。】

 公立学校で学び育った多くの国民とは、やはり違う学校環境で学び育っています。詳しいことは、成蹊小学校〜成蹊高校がどんなことを教える学校なのかを調べる必要がありますが、それよりも、やはり、祖父から受けた「日米安保論」の影響がその後を決めているということのようです。

 本日は以上です。
 おまけの写真としては、おととい長野にりんごを買いに行ってきたときのものを二枚。
 毎年、11月の末か12月の初めにりんごを買いに行っています。ツレのポリシーです。
 9時ごろ出たかったのですが、今年は3歳の孫連れのため、10時半と出遅れました。信州中野で下りて行きつけのリンゴ農家に着いたのが1時半過ぎ、独りでりんごを積み込んでいたら3時頃になり、コンビニを探してうろうろしていたら4時ごろになり、粉雪が降り始めました。
 さあ大変、ノーマルタイヤなので軽井沢あたりでチェーン規制になったら家に帰れなくなる・・・と久しぶりに緊張しました。
 でも小雪が舞っていたのは長野市周辺の山間部だけで、無事7時過ぎに帰宅できました。
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戦後の日本の保守政治 ④ [続・友よ、戦争をしない世界を創ろう!]

 前の記事の文末に「正々堂々と」書きましたが、あくまでも見せかけにすぎません。実の部分は見せますが、その周りはほとんど嘘で固めます。例えば「新しい憲法の制定を」についても、「国民合意の形成に努めます。そのため、党内外の実質的論議が進展するよう努めます」の件は、まったく実行していません。「私は内閣総理大臣として、憲法をどうするかということについては物を申し上げる立場にありません」とかなんとか、煙に巻くばかりです。

 この人の手法はみなそうです。前の記事に読者の方から以下のコメントが寄せられました。ご参考までに・・・
 SUN…さんからは「安倍総理は平気でうそつくし…」、cyoko…さんからは「【私たちは、思い切った少子化対策を進め、出生率の向上を図り、国民が安心できる、持続可能な社会保障制度を確立します。】←よく言うよね!!子ども手当を軍事予算にって言ってる防衛大臣!! 年金カット法案を強行採決!! 何処が少子化対策を進める?? 国民が安心できる??」
 多くの人が似たような印象を抱いています。それでも本人は正々堂々と大道を歩んでいるつもりでいます。少なくともその風を装っています。
 なかなか、したたかです。腹を括って、腰を据えて相手をしないと、みないいようにやられてしまいます。

 この勢いで、自民党は5年後の2010年にも綱領の書き替えを行っています。これも見ておきましょう。

【 平成22年(2010年)綱領
   平成22年(2010年)1月24日

現状認識
 我が党は、「反共産・社会主義、反独裁・統制的統治」と「日本らしい日本の確立」―の2つを目的とし、「政治は国民のもの」との原点に立ち立党された。平成元年のベルリンの壁の崩壊、平成3年のソ連邦の解体は、この目的の1つが達成されたという意味で、我が党の勝利でもあった。
 そこに至るまでの間、共産主義・社会主義政党の批判のための批判に耐え、我が党は現実を直視し、日米安全保障条約を基本とする外交政策により永く平和を護り、世界第2の経済大国へと日本を国民とともに発展させた。
 日本の存在感が増すにつれ、国際化のなかで我々は多くのものを得た反面、独自の伝統・文化を失いつつある。長寿国という誇るべき成果の反面、経済成長の鈍化と財政悪化からくる財政諸機能の不全に現在も我々は苦しんでいる。少子化による人口減少は国の生産力を低下させると言われる。
 我が国は、これ等の現実を明るく希望ある未来に変えるため、少子化対策とともに、教育の充実と科学技術開発に国民資源を注力することにより生産性を向上させ、長寿人口の活用と国民資質の向上、国際化への良き対応により、経済成長が達成でき、国民生活の充実が可能なことを世界に示さねばならない。
 我々は、日本国及び国民統合の象徴である天皇陛下のもと、今日の平和な日本を築きあげてきた。我々は元来、勤勉を美徳とし、他人に頼らず自立を誇りとする国民である。努力する機会や能力に恵まれぬ人たちを温かく包み込む家族や地域社会の絆を持った国民である。
 家族、地域社会、国への帰属意識を持ち、公への貢献と義務を誇りを持って果たす国民でもある。これ等の伝統的な国民性、生きざま即ち日本の文化を築きあげた風土、人々の営み、現在・未来を含む3世代の基をなす祖先への尊敬の念を持つ生き方の再評価こそが、もう1つの立党目的、即ち「日本らしい日本の確立」である。
 我が党は平成21年総選挙の敗北の反省のうえに、立党以来護り続けてきた自由と民主の旗の下に、時代に適さぬもののみを改め、維持すべきものを護り、秩序のなかに進歩を求め、国際的責務を果たす日本らしい日本の保守主義を政治理念として再出発したいと思う。
 我々が護り続けてきた自由(リベラリズム)とは、市場原理主義でもなく、無原則な政府介入是認主義でもない。ましてや利己主義を放任する文化でもない。自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由であることを再確認したい。従って、我々は、全国民の努力により生み出された国民総生産を、与党のみの独善的判断で国民生活に再配分し、結果として国民の自立心を損なう社会主義的政策は採らない。これと併せて、政治主導という言葉で意に反する意見を無視し、与党のみの判断を他に独裁的に押し付ける国家社会主義的統治とも断固対峙しなければならない。
 また、日本の主権を危うくし、「日本らしい日本」を損なう政策に対し闘わねばならない。我が党は過去、現在、未来の真面目に努力した、また努力する自立した納税者の立場に立ち、「新しい日本」を目指して、新しい自民党として、国民とともに安心感のある政治を通じ、現在と未来を安心できるものとしたい。

1.我が党は常に進歩を目指す保守政党である
(1)正しい自由主義と民主制の下に、時代に適さぬものを改め、維持すべきものを護り、秩序のなかに進歩を求める
(2)勇気を持って自由闊達(かったつ)に真実を語り、協議し、決断する
(3)多様な組織と対話・調整し、国会を公正に運営し、政府を謙虚に機能させる

2.我が党の政策の基本的考えは次による
(1)日本らしい日本の姿を示し、世界に貢献できる新憲法の制定を目指す
(2)日本の主権は自らの努力により護る。国際社会の現実に即した責務を果たすとともに、一国平和主義的観念論を排す
(3)自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組を充実する
(4)自律と秩序ある市場経済を確立する
(5)地域社会と家族の絆・温かさを再生する
(6)政府は全ての人に公正な政策や条件づくりに努める(イ)法的秩序の維持、(ロ)外交・安全保障、(ハ)成長戦略と雇用対策、(ニ)教育と科学技術・研究開発、(ホ)環境保全、(へ)社会保障等のセーフティネット
(7)将来の納税者の汗の結晶の使用選択権を奪わぬよう、財政の効率化と税制改正により財政を再建する

3.我が党は誇りと活力ある日本像を目指す
(1)家族、地域社会、国への帰属意識を持ち、自立し、共助する国民
(2)美しい自然、温かい人間関係、「和と絆」の暮し
(3)合意形成を怠らぬ民主制で意思決定される国と自治体
(4)努力するものが報われ、努力する機会と能力に恵まれぬものを皆で支える社会。その条件整備に力を注ぐ政府
(5)全ての人に公正な政策を実行する政府。次世代の意思決定を損なわぬよう、国債残高の減額に努める
(6)世界平和への義務を果たし、人類共通の価値に貢献する有徳の日本  】

 読んだ方には誠に申し訳ありませんが、「言わせておけ」の意見文になっていませんか?やりたいことと体裁の好いことを取り交ぜて、網羅、ますます長くなってきました。
 敢えて感想を挙げるとすれば
【ベルリンの壁の崩壊・・・ソ連邦の解体は・・・我が党の勝利でもあった。】、【我が党は現実を直視し・・・永く平和を護り、世界第2の経済大国へと日本を・・・発展させた】と自画自賛で始まります。これは党員の賛同を得、気勢を挙げるのに効果的と思われます。
 ついで【国際化のなかで・・・経済成長の鈍化と財政悪化からくる財政諸機能の不全に現在も我々は苦しんでいる。少子化による人口減少は国の生産力を低下させると言われる。】困ったことの責任は「我れ関せず」で、被害者です。どちらの政党が政権を担当して予算を作成していたのでしたかねぇ?
 それからもう一点気になることを挙げれば、【我が党は・・・との原点に立ち立党された。】のような立党時代から一貫してそうだったという表現が何ヵ所か見られます。これは、今を正当化するための歴史の塗り替えにあたります。嘘、間違いです。

 今日は引用が大半でしたがここまでとします。
 
 またまた拙い意見文にお付き合いいただきありがとうございました。今日は添える写真がないので・・・室内で撮れる写真を・・・と周りを見回して、これにします。気分直しにどうぞ。
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戦後の日本の保守政治 ③ [続・友よ、戦争をしない世界を創ろう!]

〈安倍晋三の登場と新綱領〉

 小選挙区比例代表並立制導入プラス小泉劇場以来自民党は党執行部が実権を握り、各議員党員の裁量権が著しく縮小した旨記しました。しかし、派閥という党内グループがなくなって、党執行部対党員個人との関係になったということではなく、党内グループは従来とほとんど変わらずあるものの、派閥の領袖が進んで党執行部の方針に従う、ないしは先取りするようになったということです。
 このため、党内の政治思想や政策の幅が極端に狭くなったように見受けられます。

 2005年に自民党は立党50年宣言を出しました。50年間掲げていた看板を書き替えました。綱領も掲げ直します。なぜ今まで手付けずにあがめていた看板を急に書き替えようという機運が起こったのかと考えてみますと、これに先立つ1993年に、どうやらその原因があったようです。
 1993年、政治改革を巡り自民党内に分裂がおこり、衆議院選挙で過半数を割り込み、首班指名で日本新党など非自民が推す細川護煕内閣が誕生しました。非自民政権は、自民党が社会党とさきがけを抱き込むことに成功し、わずか10ヶ月で倒れることになりますが、自民党は38年ぶりに下野し、その失地回復のため他党党首を担ぐという憂き目を見たわけです。

 この1993年に安倍氏は父晋太郎氏のあとを継いで代議士になっています。そして、「基本的に考えの違う」社会党党首村山富市氏に、首班指名で一票を投じるという苦汁をのんでいます。
 やがて自民党は復党する議員なども現れ、単独過半数を回復、1998年に単独政権に戻ります。

〈安倍氏の述懐〉

 このあたりの事情を安倍氏は自らの著書「美しい国へ」で次のように書いています。引用します。
【 自民党内にはっきりとした潮目ができたのは、政権に復帰して数ヶ月後のことである。
 結党以来初めて自民党の理念や綱領を見直す「党基本問題調査会」が開かれた。憲法をこのままにしておくのか、それとも改正する方向に踏み出すのか、議論の最大の焦点は、党是である「自主憲法の制定」をどうするかであった。
 だが二ヶ月の議論を経てとりまとめられた「自由民主党新宣言」の案には、自主憲法制定の文字はなかった。改憲色をできるだけ抑えたかったのだ。わたしはとうてい納得できなかった。なぜなら、それこそが自由民主党の存在意義のひとつといってよかったからだ。
 まだ1年生議員だったが、中川昭一議員を中心に、同じ意見をもつ仲間たちと大反対した。再度の議論がおこなわれ、修正が施されたものの、なんとかわたしたちの意見は反映されることになった。こうして新宣言にとりいれられたのが『21世紀に向けた新しい時代にふさわしい憲法のあり方について、国民と共に議論を進めていきます』という文言である。】(中川昭一氏は2009年に急逝している)
 と、ご本人が述懐しているとおり、若手数名の熱心な働き掛けで、この看板の塗り替え作業は行われたものと思われます。
 その結果できた新綱領を次に挙げます。

【 新綱領
   平成17年(2005年)11月22日

• 新しい憲法の制定を
 私たちは近い将来、自立した国民意識のもとで新しい憲法が制定されるよう、国民合意の形成に努めます。そのため、党内外の実質的論議が進展するよう努めます。

• 高い志をもった日本人を
 私たちは、国民一人ひとりが、人間としての普遍的規範を身につけ、社会の基本となる家族の絆を大切に、国を愛し地域を愛し、共に支え合うという強い自覚が共有できるよう努めます。そのために教育基本法を改正するとともに、教育に対して惜しみなく資源を配分し、日本人に生まれたことに誇りがもてる、国際感覚豊かな志高い日本人を育む教育をめざします。

• 小さな政府を
 私たちは、国、地方を通じて行財政改革を政治の責任で徹底的に進め、簡省を旨とし、行政の肥大化を防ぎ、効率的な、透明性の高い、信頼される行政をめざします。また、国、地方の適切な責任分担のもとで、地方の特色を活かす地方分権を推進します。

• 持続可能な社会保障制度の確立を
 私たちは、思い切った少子化対策を進め、出生率の向上を図り、国民が安心できる、持続可能な社会保障制度を確立します。

• 世界一、安心・安全な社会を
 私たちは、近年の犯罪の急増やテロの危険性の高まりに対し、断固たる決意をもって闘うとともに、災害に強い国づくりを進めることにより、日本を世界一、安心・安全な社会にします。

• 食糧・エネルギーの安定的確保を
 私たちは、世界の急速な変化に対応するため、食糧とエネルギー資源を確保し、経済や国民生活の安定に努めます。特に、食糧の自給率の向上に努めるとともに、食の安全を確保します。

• 知と技で国際競争力の強化を
 私たちは、わが国の質の高い人的資源と技術力を基礎に、新しい産業の育成にも力を注ぎ、国際競争を勝ち抜くことのできる、活力と創造力あふれる経済の建設をめざします。
特に、日本の中小企業の活力を重視し、また、最先端技術の基礎的、独創的な研究開発を推進し、知と技によって支えられる科学技術立国をめざします。

• 循環型社会の構築を
 私たちは、自然も人も一体という思いから、地球規模の自然環境を大切にし、世界の中で最も進んだ持続可能な循環型社会の構築をめざします。

• 男女がともに支え合う社会を
 私たちは、女性があらゆる分野に積極的に参画し、男女がお互いの特性を認めつつ、責任を共有する「男女がともに支え合う社会」をめざします。

• 生きがいとうるおいのある生活を
 私たちは、ボランティア活動や身近なスポーツ・芸術の振興、高齢者や障害者の社会参加を促進し、生きがいとうるおいのある生活をめざします。そのため、NGO・NPO諸団体をはじめ、あらゆる団体との交流を深め、また、まじめに働く人たちの声を大切にします。】

 50年前の綱領と比べると、圧倒的に言葉が増えました。看板にたくさん書きました。トップに憲法改正を掲げました。改憲派の主張が明文化されました。以降「我が党は綱領にもありますとおり、自主憲法の制定を党是としておりますので・・・」と、党内外でその歩みを堂々と進めるための布石を、ここでしっかり打ちました。

 二番目の見出しは「高い志をもった日本人を」となっていますが、「教育基本法の改正」を宣言しています。これは平成18年(2006年)に第一次安倍内閣で成立させています。
 看板書き換えの目的は、上記2点で達成されていると思われますが、ものごとは、具体的な目標を一、二掲げると、他はどうなのかということになります。そこで、整合性のために他のこともいろいろと挙げることになります。あとは官僚の作文ぽくなります。
(教育基本法の改正でもそれが見られます。第二条を「教育の目標」とし、その三に【 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと】と載せました。おそらくこの後半部分をぜひ載せたいのです。そうなると、教育の目標という取りとめのないことを、箇条書きでもっともげに作文することになるのです。)

 いずれにしても、安倍晋三という人は、やらんとすることをまず文書化し、旗を立てて正々堂々と実行に移していく、そういうタイプの、なかなか侮れない、「法治主義」の(法を憲法と知らず、法律と勘違いしている人ですが)、虚弱かと思ったら実はしたたかな政治家です。
 
 こうして自民党は変貌していきます。

 本日はここまでとします。例によって拙い意見文にお付き合いいただきありがとうございました。文末の「正々堂々と」については、ちょっとレトリックでそうなってしまいました。次回改めて検証します。

 おまけの写真は、セキレイちゃんに2、3メートルまで接近できたのでそれを載せます。
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戦後の日本の保守政治 ② [続・友よ、戦争をしない世界を創ろう!]

〈小選挙区比例代表並立制の影響〉
 自民党は完全に変貌します。そのきっかけはWikipediaの解説にもありました選挙制度の改変です。当選者が複数いる中選挙区制から、当選者一人の小選挙区制に変わりました。これでは少数政党が国会に代表を送ることができなくなってしまうおそれがあるため、比例代表制も併せて導入されました。1994年のことです。

 この選挙制度の改変が国政にもたらした影響は、みなさまご存知のとおり、第二党の民主党が勢いを得、参議院の保革逆転により、国会のねじれ現象が生じました。さらに2009年には衆議院選挙でも308議席を得、政権交代を実現しました。
 しかしこの勢いにおごりがあったのでしょうか、党内の主導権争いが目立ち、評判はイマイチでした。さらに、沖縄基地を巡る鳩山発言や菅氏の消費税導入発言などもあり、参議院選挙では大きく後退、数年前と逆のねじれ国会となりました。
 さらに2011年には未曾有の大震災に見舞われ、東北地方太平洋岸を飲み込む大津波が襲来、これに東京電力福島原子力発電所の大事故が重なり、政権への信頼度が次第に薄れていきました。民主党にとって運の悪いできごとでした。
 そして、2012年12月の衆議院選挙では自民党が294議席(民主党はわずか57議席)を獲得、政権を奪還することになりました。

 小選挙区制導入により、明らかに選挙のたびの揺れが大きくなり、その結果、政権交代が行われたことは確かです。しかし選挙民の動向を見ると、これによって政権交代という政治風土が定着したかというと、実は、自民一辺倒に帰着した感があります。「自民党以外に、政治を任せられるところはない」という合言葉が生まれたかのようです。
 ちなみに、2014年12月の前回衆議院選挙の結果は下記のとおりです。(SUN FIRST さん調べ)
 得票率では
小選挙区 : 自民・公明 49.54、野党 50.46
比例代表 : 自民・公明 46.82、野党 53.18
 議席数では
小選挙区 : 自民・公明 78.64、野党 21.36
比例代表 : 自民・公明 52.22、野党 47.78
 小選挙区では圧倒的に、比例代表でもかなり、与党が有利に議席を獲得しました。小選挙区制導入前の、自民党一強に対し中小政党の乱立という時代に逆戻りした感があります。

 小選挙区制の下、一度浮気をしてみたけれど、やっぱり本妻の自民党さんがいいという、元の鞘に収まったという流れです。
 では一件落着かというと、全然そうではありません。

〈様変わりした自民党〉
 選挙制度の改変は国会の議席数に影響を及ぼしただけではありません。自民党をかつての自民党とは違うものに変えました。本妻のところに戻ってみたら、性格が昔と一変していたのです。そこを知らねばなりません。

 かつては、政治理念を異にする大物政治家の寄り合い所帯だったのですが、小選挙区比例代表並立制の導入により、党本部の力が強くなる下地ができました。一人区になりましたから、公認は一人です。比例代表では、名簿の上位に入れてもらわないと当選できません。
 制度が変わっても、最初のうちは派閥間のバランスが考慮・調整されたせいか、著しい変化は感じられませんでしたが、小泉劇場で激変しました。2005年8月の郵政選挙です。小泉総裁とイエスマンと言われた武部幹事長の強いリーダーシップで、総裁の政策に異議を唱える自民党員は公認を得られず、そればかりか、刺客と称される対抗馬を立てられる羽目にもなりました。
 郵政民営化がそれほど重要な政策とも思えませんでしたが、政治家特有の脂ぎった感じがなく、飄々として意志を貫く一風変わった小泉純一郎の風貌が人気を博し、郵政選挙は小泉自民党の圧勝に終わりました。

 この頃、小泉内閣の下で台頭してきたのが安倍晋三です。期を一にして、自民党は、立党宣言に当たる立党50年宣言を出します。

【 立党50年宣言
   平成17年(2005年)11月22日

 わが党は民主主義のもとに、平和と自由を愛する国民政党として立党以来、ここに50年の歳月を刻んだ。この50年間、我々は国民の負託に応え、情理を尽くして幾多の問題を克服し、国家の安全と経済的豊かさを実現すべく、つねに主導的役割を果たしてきた。

 この半世紀は、わが国が国際化の道を歩んできた時代でもある。
 また、冷戦が終焉し、世界が大きく変動した時代でもある。
 わが国は、いまや少子高齢化、国際テロリズムの激化への対応など多くの課題をかかえている。

 我々は先人が明治の改革、戦後の改革に大胆に取り組んできたように、新しい党の理念と綱領に基づき、構造改革、行財政改革、党改革などの諸改革を進めていかなければならない。

 我々はわが国の歴史と伝統と文化を尊び、その是をとって非を除き、道徳の高揚につとめ、国際社会の責任ある一員として積極的に活動する国家の実現を国民に約束する。

 右、宣言する。  】

【政治は国民のもの】で始まり、【文化的民主国家の諸制度を確立して、祖国再建の大業に邁進せんとするものである】で終わるあの謙虚で志に満ちた立党宣言は、かくのごとく変貌しました。すなわち【わが党は・・・つねに主導的役割を果たしてきた】で始まり【道徳の高揚につとめ、国際社会の責任ある一員として積極的に活動する国家の実現を国民に約束する。】
 50年でこんなに自民党は偉くなってしまいました。これだけ発想が、国民に対する態度が、変わってしまいました。このあたりから安倍晋三氏の影響が顕著になってきたのです。綱領も刷新されます。

 夜も深まってきましたので、今宵はこれまでとします。

 拙い意見文にお付き合いいただきありがとうございました。今日は添える写真もなくて、ほんとにどうもすいません!

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戦後の日本の保守政治 [続・友よ、戦争をしない世界を創ろう!]


《戦後の日本の保守政治》

 こうした米国との関係の中で、日本の政治家はどのように日本を導いてきたのか、概観しておきます。

〈かつての自民党の政治〉

 戦後の日本の政治はその大半の期間を自民党が執り行ってきましたので、自民党について振り返っておきます。

 自民党はWikidediaには次のように載っています。(一部省略しています)
【 自由民主党は、1955年に日本民主党と自由党が合同して結成した日本の政党。自由主義を堅持する保守政党で・・・結党以来、政権与党の座にあり続け、1993年(平成5年)に自民党と共産党以外の政党による連立政権、2009~12(平成21~24)年の間は民主党を中心とする連立政権に政権の座を奪われたものの、その後は自民党と公明党の連立政権が続いている。】
 さらに【概要】として
【 1955年(昭和30年)に自由党と日本民主党の「保守合同」により結成された保守政党。太平洋戦争(大東亜戦争)前の二大政党・立憲政友会と立憲民政党、戦時中の翼賛政治の中核を担った会派である翼賛議員同盟と翼賛政治会と大日本政治会(以上3会派は日本進歩党の前身)及び翼賛政治に批判的な会派である同交会(日本自由党の前身)と護国同志会(日本協同党の前身)、また敗戦直後に結成された日本自由党と日本進歩党と日本協同党の流れを汲む。

 結党以来ほぼ全時代にわたって政権与党の座にあり、結党から60年間で野党にあった期間は4年ほどである。そのため、戦後日本を代表する政党であるといってよい。

 党の運営は、永らく執行部の権力が弱く、ベテラン政治家が「派閥」を形成してその派閥間での駆け引きで政治が行われることが常態化していた。これは、一つの選挙区に複数候補を立てる必要のある中選挙区制が採用されていたためである。同じ選挙区の同僚議員は、同じ政党でありながら当選を競い合うライバルであった。立候補者は党本部の応援を独占することができず、選挙区で個人の後援会を組織したり、さらには大物政治家の派閥に加わり、平時はその政局の駒となるのと引き換えに選挙においては派閥の援助を受けた。互いに有権者の歓心を買うため、金権政治の温床ともなった。 1990年代に政治改革の一環として選挙制度が小選挙区比例代表並立制となり、以降は党本部の統制力が強まっている。

 広報宣伝用として・・・(シンボルマークについては省略します)

 自民党は多数の政治家を輩出しており、90年代以降の政界再編で非自民勢力の大物政治家であっても、元をたどれば自民党出身者が多い。総理大臣では細川護熙・羽田孜・鳩山由紀夫、その他では小沢一郎・亀井静香・岡田克也などである。  】

 自民党は【執行部の権力が弱く、ベテラン政治家が「派閥」を形成してその派閥間での駆け引きで政治が行われることが常態化していた】。かつての自民党は、政治理念がかなり異なる人たちが政権を担当するために一つの寄り合い所帯を作っているという風情でした。自分たちの主義主張ばかりを激しく展開すると、分裂して少数政党になりかねないので、我慢して大同団結、派閥間で調整し、日の目が巡ってくるのを待っているというスタンスで政権を担当していました。

 彼らの政治的主張については、結党時の立党宣言と綱領を自民党のホームページより引用します。

【 立党宣言   昭和三十年十一月十五日

 政治は国民のもの、即ちその使命と任務は、内に民生を安定せしめ、公共の福祉を増進し、外に自主独立の権威を回復し、平和の諸条件を調整確立するにある。われらは、この使命と任務に鑑み、ここに民主政治の本義に立脚して、自由民主党を結成し、広く国民大衆とともにその責務を全うせんことを誓う。
 大戦終熄して既に十年、世界の大勢は著しく相貌を変じ、原子科学の発達と共に、全人類の歴史は日々新しい頁を書き加えつつある。今日の政治は、少なくとも十年後の世界を目標に描いて、創造の努力を払い、過去及び現在の制度機構の中から健全なるものを生かし、古き無用なるものを除き、社会的欠陥を是正することに勇敢であらねばならない。
 われら立党の政治理念は、第一に、ひたすら議会民主政治の大道を歩むにある。従ってわれらは、暴力と破壊、革命と独裁を政治手段とするすべての勢力又は思想をあくまで排撃する。第二に、個人の自由と人格の尊厳を社会秩序の基本的条件となす。故に、権力による専制と階級主義に反対する。
 われらは、秩序の中に前進をもとめ、知性を磨き、進歩的諸政策を敢行し、文化的民主国家の諸制度を確立して、祖国再建の大業に邁進せんとするものである。
 右宣言する。  】と立党の精神はなかなか見事なものでした。リベラルの気風が溢れています。

 続いて綱領です。

【 綱領   昭和三十年十一月十五日

一、わが党は、民主主義の理念を基調として諸般の制度、機構を刷新改善し、文化的民主国家の完成を期する。

一、わが党は、平和と自由を希求する人類普遍の正義に立脚して、国際関係を是正し、調整し、自主独立の完成を期する。

一、わが党は、公共の福祉を規範とし、個人の創意と企業の自由を基底とする経済の総合計画を策定実施し、民生の安定と福祉国家の完成を期する。   】これまた、国政を担おうとする政治家の志が感じられる文言と言うことができるでしょう。

 この程度のシンプルなくくりで集まれる人材が第一党を形成し、60年に岸信介が結んだ日米安全保障条約の枠内で、アメリカの要請に耳を貸しながら、国政を営んできました。日本国憲法についても、その尊厳を認め、そこから明らかに逸脱することがないよう、外交交渉したり、国内への取り繕いをしたりして、一応独立国としての体面は保ってきました。
 ただ、アメリカからの要請についてはつまびらかにせず、その点を国民に情報開示して世論の動向を求めるということはしませんでした。
 外国の要請で大きく政治が動いていると、国益を損なうことは否めません。アメリカにとって改善してほしいことを要請するわけですから、少子高齢化で国力が衰えるから対策を講じたほうがよいとか、教育の質を高めて人的資源を豊かにしたほうがよいとかという要請は出るはずもありません。こういう国内的な問題がどうしても疎かになります。
 そういう欠点(致命的?)はありますが、しかし、他派閥に配慮し、野党やマスコミにも気を使いながら、慎重に政が行われてきたと言うことはできるでしょう。

 それが、【1990年代に政治改革の一環として選挙制度が小選挙区比例代表並立制となり、以降は党本部の統制力が強まって・・・】という変化を迎えます。自民党は完全に変貌します。

 次回は自民党の変貌ぶりを概括します。

 またまた拙い文字ばかりの意見文にお付き合いいただきありがとうございました。

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戦後の日米関係 ③ [続・友よ、戦争をしない世界を創ろう!]

(加筆しましたので、一部重複しますが、〈お国柄の違い〉から載せます)

〈お国柄の違い〉
 それからお国柄も、大変違います。
 言うまでもないことですが、アメリカの歴史は、さかのぼっても15世紀末からです。広い大陸を原住民を追い払いながら、イギリスを中心とするヨーロッパの人たちが、生活域とその文化を広げていったのです。イギリス本国からの独立を宣言したのが1776年、それからまだ250年もたっていません。新天地を思うままに開拓して作った国です。社会が行き詰まれば、他に生活域を拡張すればいいと思いかねない建国の歴史です。

 一方、日本は海に閉ざされた、大陸から見れば狭い島国です。ここで、権威の象徴として天皇を仰ぎながら、二千年もの間、社会秩序を練りつつ、歴史を紡いできた国です。さらに、狩猟採集の時代の生活習慣さえ、身体のどこかが受け継いでいます。
 ヨーロッパ文明に触れて、その力と張り合うために外の世界に進出こそしましたが、長い歴史から見ると、それは例外的な出来事に過ぎません。

 また経済事情も大いに異なります。
 アメリカは国土が広く資源に恵まれています。農業など一次産業も、鉱工業も、サービス業も、どれも他国にくらべ劣る要素はないほどバランス好い産業構造をしています。自国だけでも立ち行く大国、つまりはお大臣の国です。
 一方、日本は地下資源に乏しく、食料自給率もカロリーベースで39%(金額ベースで70%)とバランスを欠いた産業構造の国です。原料や食料を海外に頼り、工業製品を輸出して成り立つ加工貿易国、いわば世界の職人です。戦乱の世に耐えられる財力も避難場所もありません。シェルターも用意していません。

 戦争以来癒着してしまった両国ですが、立場も歴史も経済事情も、ちょっと考えただけでもこれほど違うのです。軍事同盟を結んで行動を共にして、一体、どこにどんなメリットが、日本側にあるというのでしょうか?

〈「この道しかない」は本当なのか〉
 大統領が変われば、就任式を待たずに首相が馳せ参じ、両国の同盟関係の重要性とその宣伝に努めます。主要メディアも首相のこの行動を、お手柄のように報道しています。日米関係を最重視するという揺るぎなき外交方針をわが国は持っているかのようです。
 しかし、集団的自衛権の行使は憲法に違反するとの見解が一般的だったのではありませんか?強行採決したから、その点はもうクリアなのですか?反対する人が大勢いて、10万人(警察発表は3万人でしたか)もが国会に押し寄せたのではありませんか?米軍基地の移転問題も地元の人たちの大反対運動に遭っているのではありませんか?
 首相が高級ゴルフクラブを提げて一人で飛んで行って(「私は一人で行っていません、こういうのをプロパガンダって言うんです」と言うんでしょうね、あの人)その一の子分に成り下がって(「成り上がって」なのでしょうねぇ、あの人の感覚では)、それでわが国の、わが国民のメンツはどうなのですか?
 アメリカの一の子分で、まずは自衛隊員の、やがて一般国民の身の危険も捧げることでいいんですか?それしか道がないのですか?

 そもそも、次期大統領はヒラリー氏に落ち着くと見ていたのではありませんか?トランプ氏に決まったら即座にしっぽを振って仲良しを演出するのですか?どんな人物か出方を見て、その様子でこちらのかかわり方を決めるという、沈着冷静なというか、慎重な、普通の、国としての対応をしなくていいのですか?非常識の胡麻擦り外交と思われませんか、諸外国から。日本の存在価値は増しますか?
 スポーツで日本のナショナルチームができると、男子は「さむらいジャパン」女子は「なでしこジャパン」とよく呼びます。かつての武士道や大和撫子への憧れがあるのではありませんか。今の日本国の外交方針は、これに適っていますか?さむらい気がありますか?
 戦争に負けて、勝った国の一の子分となり、その国に尽くし、その国との一体感で世界に威信を示す。まさに虎の威を借るキツネです。その狙いは「虎の強さもいつかは揺らぐ。そのときはその地位に取って代わるチャンスだ」なんでしょうかね?しかし、それは無理ですよね、お国柄が違い過ぎます。世界の親分になるには無理があります。
 それとも、一の子分ならば親分を動かすことができるので、その地位を利用して世界の秩序を保ち、世界の平和に貢献することができるということなのでしょうか?
 しかし、それにしては変です。ブッシュ大統領の始めたイラク戦争に一番先に支持を表明したのは日本です。国連の舞台で、核兵器禁止条約交渉開始の決議案に反対したのも日本です。武器の製造や輸出の禁止をどんどん緩和しているのも日本です。決して平和に向かってリードしている様子は見られません。ただ、強いアメリカの指示や意向に従っているだけです。

 この生き方は、国のこの方針は、サムライ精神に適うどころか、弱くてずるくて情けない、卑怯な処し方ではありませんか?大和撫子も、清楚で奥ゆかしい生き方を旨とするのではないでしょうか。

〈他にも道はある〉
 戦争に負けた日本の生き方は他にはないのでしょうか?
 あると思います。間違いなくあります。そこを封印してはいけません。
 日本人は国を挙げての悲惨な戦争を体験し、正直、国の運営の仕方から、命懸けの戦闘、戦地での野蛮な行為、焼夷弾や機銃照射の雨、果ては原爆の破壊力まで、もうすっかり懲りたのです。そして、国民主権と基本的人権の尊重、平和主義を謳う憲法をいただくことにしたのです。
 この憲法に従って、外交問題を解決する手段としての戦争を認めず、自衛のための戦闘行為以外の武力行使を一切放棄する国の方針を貫けばよいのです。国境を尊重し、互いに侵略はしないという協定を各国と積極的に結んでいけば、それだけ安心して暮らせる地球になります。
 核兵器を打ち込まれたらどうするのか、抑止力としてアメリカの核の傘が必要だという意見もありましょう。しかし、そんなことを言い出したら、すべての国が核兵器を持たなければ安心して暮らせないことになります。すべての国が持ったら、それで安心できる地球になるのかと言えば、そんなことはありません。今度は、持つか持たないかではなく、保有量が問題になります。どれだけ保有したら安心できるか?馬鹿げています。どんどん地球が危険な星になっていくだけです。
 愚かなチキンレースは止めようと、どこかの国が言い出す必要があるのです。日本はその適任国です。唯一の原爆被爆国です。それから、国土が狭く、高度に密集した都会生活を送っている国でもあります。いくら核兵器を保有し貯蔵しても、核戦争に強い国にはなれません。
「愚かな戦争は止めましょう!」を国是に、つつましく平和な東洋の島国として、武力ではなく、行き届いた製品や技術で世界に貢献する国となりましょう。
 アメリカとは、あまりにも立場が違います。しかし、根拠が明瞭なだけに、理解し合えないことはないでしょう。半世紀も遅れてしまいましたが、そろそろ独自の道を歩み始める時期ではないでしょうか。

 本日は以上です。またまた拙い意見文にお付き合いいただきありがとうございました。

 20日朝、写真を一枚追加掲載します。珍しく霧発生、日本の前途?
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戦後の日米関係 ② [続・友よ、戦争をしない世界を創ろう!]

〈戦争に勝った国と負けた国〉

 しかし、日本とアメリカは立場が違います。アメリカは戦争に勝った強国として、その後も世界の秩序を保つ義務(というか宿命?)があります。
 日本は違います。大東亜共栄圏構想を持って世界に挑み、戦争に負けて無条件降伏をした国です。敗戦に至るまでに、各前線で壮絶な戦いを強いられ、反撃には若者を特攻隊として送り出し、沖縄では住民を悲惨な戦闘に巻き込み、日本各地が空襲にさらされ、挙げ句は広島と長崎に原爆を投下されました。

 戦闘行為だけではありません。情報が日本政府により管理され、特高警察により思想統制され、貴金属や装飾品の供出を命じられ、軍事工場に駆り出され、成年男子は赤紙一つで徴兵され、軍隊では上官から理不尽な仕打ちを受け、戦地では野蛮な行為をするはめになり・・・日本人がどれほど戦争により悲惨な目に遭ったか、当時の日本は軍事独裁国家だったのです。
 その日本が、勝ったアメリカと一緒になって世界中の出来事に関心を持ち、軍事力を行使する、そんな国の在り方を国民が望んでいるはずがありません。

 日本は、国を挙げての戦争に懲りたのです。国民の命や生活より戦争に勝つことが大事とする価値観に懲りたのです。原子爆弾の破壊力に懲りたのです。都市が空襲に遭うことに懲りたのです。他国で野蛮なことをすることに懲りたのです。それで日本は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」、「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」と憲法の前文に記し、第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】を次のように定めたのです。
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 誰が発案したのかしばしば問題になりますが、そんなことはこの際、大した問題ではありません。これに異論をはさまず、進んで納得して、国民が受け入れてきたという事実が大事です。
 そういう憲法を掲げる国なのです。戦争に勝って、その軍事力で以後の世界にも目を配ろうとする国とは根本的に違うのです。

〈お国柄の違い〉

 それからお国柄も、大変違います。
 言うまでもないことですが、アメリカの歴史は、さかのぼっても15世紀末からです。広い大陸を原住民を追い払いながら、イギリスを中心とするヨーロッパの人たちが、生活域とその文化を広げていったのです。イギリス本国からの独立を宣言したのが1776年、それからまだ250年もたっていません。新天地を思うままに開拓して作った国です。社会が行き詰まれば、他に生活域を拡張すればいいと思いかねない建国の歴史です。
 一方、日本は海に閉ざされた、大陸から見れば狭い島国です。ここで、権威の象徴として天皇を仰ぎながら、二千年もの間、社会秩序を練りつつ、歴史を紡いできた国です。さらに、狩猟採集の時代の生活習慣さえ、身体のどこかが受け継いでいます。
 ヨーロッパ文明に触れて、その力と張り合うために外の世界に進出こそしましたが、長い歴史から見ると、それは例外的な出来事に過ぎません。

 戦争を挟んで、立場も国柄もこれほど違う二つの国が、軍事同盟を結んで行動を共にして、一体、どこにどんなメリットがあるというのでしょう。

 本日はこれまでです。次の節では 〈「これしかない」は嘘、他にも道がある〉を書こうと思います。
 以下はおまけの写真です。空三題。
 昨日、関東は青空でした。
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 夕方の西の空です。
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 東の空には盆のような月が・・・
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 その後曇ってきて、今は降りだす寸前です。
 ご訪問に感謝します。

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戦後の日米関係 ① [続・友よ、戦争をしない世界を創ろう!]

 書きかけですが、取り敢えず更新します。

《戦後の日・米関係》

 日本政府に大きな影響力を持っているアメリカとの関係を概観しておきます。
〈戦争直後の関係〉

 戦争に完勝したアメリカは、まずは当然日本の武装解除の徹底を図ります。それから社会制度の改変を実施します。国を挙げて一丸となる全体主義に再び陥ることがなく、国民に解放感を与えるような政策として、様々な分野で民主化が計られます。
 占領し、自国の植民地にすればそのような政策の必要は必ずしもないわけですが、米・英は、日米開戦前の1941年夏に、大西洋憲章を結んでいます。ナチスドイツを駆逐した後の戦後の構想を両国代表が述べ合い、大西洋上で調印したもので、次の8項目からなります。
 その内容は要約すると以下になります。(Wikipedia による)
1. 合衆国と英国の領土拡大意図の否定
2. 領土変更における関係国の人民の意思の尊重
3. 政府形態を選択する人民の権利
4. 自由貿易の拡大
5. 経済協力の発展
6. 恐怖と欠乏からの自由の必要性(労働基準、経済的向上及び社会保障の確保)
7. 航海の自由の必要性
8. 一般的安全保障のための仕組みの必要性

 戦後処理はこの憲章の趣旨にそう必要があったわけです。

 アメリカとしては、領土にはできないものの、大きな代償を払って手に入れた戦利品ですから、その活用法については抜かりなく検討します。アメリカの戦後の世界戦略にどう役立てるか。
 気遣いなのは終戦直前に参戦したソ連の侵攻と日本の共産主義化です。占領した日本の領土を第三国と分割統治することにならないよう、また、共産主義の台頭により国内秩序が乱れ液状化してしまうことのないよう、できるだけ混乱を少なく収拾する必要があると判断します。
 そこで、天皇の絶対的権威の利用が検討され、実行に移されます。そしてそれは、戦争責任の回避と、地位の保全ないしは日本国の伝統維持を願う天皇側の意向とも合致し、両者の協力関係が阿吽の呼吸で成立、戦後の改革が大きな混乱もなく遂行されます。
 現人神であった天皇は人間宣言をし、元首の座から、政治力を持たない象徴という立場に変身します。

 ほどよく戦前の国体を残した枠組みで占領軍の統治は進み、日本軍の解体と米軍基地の建設が行われていきます。
 アメリカが日本の地に軍事基地を置きたい理由は、枢軸国との戦争に勝つ中で勢力を伸ばした社会主義体制のソ連と中国に対峙する前線基地として活用することと、日本の軍事的台頭を監視・事前に阻止することの二点にあると思われます。
 こんな思惑の中で、戦争で疲弊した日本国民の思いもあって、象徴天皇制、非武装平和主義、国民主権と基本的人権の尊重を謳う日本国憲法が作られます。そして、以後多くの日本人がこれを愛することとなります。(このあたりの事情は矢部宏治著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』に詳しく書かれています)

〈朝鮮戦争と東西の熱い戦い〉

 こうして先進的な憲法を持つ戦後日本が誕生しますが、国づくりをしたアメリカにとって憲法を尊重してばかりいられない事態がすぐに起こります。
 1950年に朝鮮半島で戦争が起きます。これは、終戦間際に参戦し朝鮮半島に進軍してきたソ連とアメリカとが北緯38度線を境に分割統治することになり、南に大韓民国が、北に朝鮮民主主義人民共和国ができます。北側が周到な軍事力を以って境界線を越え、大韓民国を圧倒、これを米英が国連軍を組織し応戦。日本に駐留する米軍も当然出動。南側が優勢になると中国軍が参戦、猛反撃に出ます。こうして1953年の休戦協定にたどり着きます。
 中国軍には台湾侵攻の動きもあり、アメリカは艦隊を派遣します。
 その後ベトナムでも類似の事態が起きます。東西が冷戦に至る前の熱戦の時代でした。
 朝鮮戦争が始まると、日本の防衛力・治安維持力が懸念され、警察予備隊、後の自衛隊が首相直属の機関として組織されます。

 日本の独立も急がれ、1951年、サンフランシスコ講和条約が、日米安全保障条約とセットで結ばれます。
 安保条約は日本の安全を保障してもらう意味合いが強調されますが、この条約により、米軍の駐留が際限なく続くことにもなります。

〈憲法に反する日米同盟〉

 自衛隊は国の存続が脅かされる事態に備える自衛のための組織で、条文こそないものの、憲法の想定する範囲内という解釈もできますが、日米同盟となると、国際紛争を解決する手段として戦争を認めず、軍隊も有しない国が他国と軍事同盟を結ぶことは、憲法に違反します。このため、アメリカとの関係は、憲法より上位に位置することとされます。
 こうして、憲法が国の最高法規という世界の常識を超えた中途半端な「独立国」が、サンフランシスコ講和条約以降営まれることになります。

〈日米同盟のフラストレーション〉

 日米同盟はアメリカの世界戦略上欠かせないものであると同時に、日本にとっても、その笠の下にあることが、ソ連(現在はロシア)や北朝鮮、中国の脅威に備える上で欠かせないものとして、最重要視されてきました。このため日本政府はアメリカに基地を提供し続けるにとどまらず、その要求はほぼ全面的に受け入れ、国民の反対が予想される事項では密約を交わし、国民に知らせることもなくその要求に応えてきました。

 アメリカにしてみると、自国の防波堤であると同時に、その庇護のもと、平和を享受し、象徴天皇を頂き、経済力はアメリカを脅かすまでに成長し、アメリカにない国民皆保険制度も持つ国になったのですから、日本との関係は心穏やかではありません。防波堤であると同時に、したたかなライバルでもあったのです。

 米軍基地を抱えた国民の人権問題、憲法が通用しない不条理、密約が横行する不透明な政治、少子高齢化が進行している社会問題など、日本社会が抱える悩みなどは目にも止めず、自国より好く見えるところだけを羨ましく思ってきた節がうかがえます。もっとも、日本の問題は日本側が主張すべきであって、アメリカに察してくれというものではありませんから言わなければ通じないのも当然のことです。
 資本主義社会の恩恵を受けているなら、防衛費を負担しろ、汗を流せ、血も流せということになります。
 こういう圧力が、日本政府にはかかりっぱなしなのでしょう。

〈戦争に勝った国と負けた国〉
 しかし、日本とアメリカは立場が違います。
(次回に続きます)
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