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なんで「上級国民」に支配されてしまうのか? [日本考]

だいぶ日は延びてきましたが、まだまだ寒い日が続いていますね。コロナ禍は収まらず人には会いにくいし、試練の冬ですね。皆さまいかがお過ごしでしょうか

さて、前記事の続きです。そんなわけで、日本の政治は、国民の代表が国民のためにしているのではなく、一部特殊な人たちが、国民を支配するためにしていることが判明しました。

選挙が行われているにもかかわらず、日本人はなぜ自分たちの代表ではなく、自分たちを支配する人たちを選んでしまうのでしょうか。その謎というか経緯を探っておく必要があろうかと思います。

まずは国民性です。民主主義は人々が主権者です。一億いれば一億人が王様です。国の在り方や将来を決めます。

一堂に会せないので代表を選びます。代表者は自分たちの代理であって同等です。こういう感覚が日本人は乏しいのではないでしょうか。

国会議員はエライ人。中でも大臣は地元の誇り。総理大臣ともなればエライ人の中でも最もエライ人。そんな人に誘われれば「桜を見る会」でもその前夜祭でも、喜んでバスを連ねて行ってしまう。

一国の在り方と将来を決めるはずの王様が、自分たちの代理を崇め、かほどに尻尾を振ってしまうのです。つまり権威に弱い。権威の源は自分(=国民)だという自覚が足りない。できない。育たない。

支配者に繋がっていれば満足なのです。そういう国民性がありそうです。思えば、日本の民主主義は戦争に負けてアメリカさんからもらったものです。自国で到達した制度ではないので、制度を維持するに足る精神的な備えはまだできていないのです。

もともと日本人はお上に弱いところがありますが、時代に即して変わっていかないと、どこかチグハグなことになりかねません。

変わるかどうかは教育にかかっていると言えましょう。教育の主役は学校です。学校が民主主義に必要な主権者としての心得を十分教えているかというと疑問を持たざるを得ません。

戦後間もない頃のほうが「これからは民主主義の時代なんだから・・・」と力が入っていたような気がします。

最近は、ディベートとか、パネルディスカッションとか、自分の意見を発表するとかいう勉強こそしていますが、また、憲法や三権分立など民主主義の制度について一通り教えてはいますが、では国会でどのような議論が行われているのかなど、現実を見ることは一切しません。

教育に、政治に対する見解を持ち込むことはタブーとなっています。学校教育は政治には触れません。これでは、主権者の教育はできません。

政治に関心を持つことは主権者として大事で当たり前のことなのに、政治に何かしらの意見を持つことは特殊なことのようになっています。

主権者・王様ですからね、自由に話題にして議論しないといけませんよね。学校教育は、偏った政見を押し付けることは排除しなければいけませんが、話題にあげて自由に討論することはしていかないと、政治無関心層や、政治を色目で見る人を大量生産してしまいます。

教育がすでに支配者によって支配されてしまっていると言えそうです。解放しないといけませんね。

「先生方、もっと自由に今の政治のことに触れてよ!」って思います。別に何ら批判しなくていいのですから。「皆さんはどう思いますか?」ってことですから。

神棚に上げて触れな過ぎるから、畏れ多いものと人々が思ってしまうんですよね。

そういう面があろうかと思います。

さて、権威を崇め繋がっていれば満足する人ばかりではありません。国の在り方や将来を真に考える人たちもたくさんいましょう。そういう人たちがどんどん政治に参加すれば日本の現状は変わるでしょう。

しかし、政界への門戸が開かれていない、あるいは狭き門となっているという現実もあります。政界に進出するには、地盤、看板、カバンが必要だとよく言われています。

この辺りのことも考えたいと思いますが、長くなりそうなので今日はこの辺で!

お付き合いいただきありがとうございました。


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