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心の問題を考える(3) [人間考]

昨日、今日と寒さは緩んできましたが、新型コロナの感染拡大は止まりませんね。医療崩壊から入院先が見つからないまま自宅でお亡くなりになるという悲劇が起きているようです。

そんな逼迫した状況ではありますが、書きかけたことなので続きを書かせていただきます。


差別といじめはあるまじきこととなっていますが、実は、あるのですね。どこにある?人の心の中にうようよしているんですよね。

たいてい誰でも、好き嫌いがあります。大切にする人の順番があります。職場でも学校でも近所でも、家の中でも・・・当然のように差別して付き合っているんですよね。

そういう心理はあることを前提に考えた方が良いのでは?というのが今回の記事のテーマです。

差別自体は否定することはできなくても、無条件に肯定することもできません。人は、差別の心理とどう向き合えばいいのでしょうか?

まずは、差別する理由や根拠です。その理由や根拠に合理性や客観性があるのかどうかです。

「なんとなく・・・」とか、「縁起が悪いから」とか、「外国人だから」とか「宗教が違うから」とかいうのは、差別を正当化する理由にはならないだろうと思います。

主観的、あるいは自己中心的な理由はダメです。他人の存在自体を嫌ったら、自分の存在も危うくなります。これを言い出すと、地球という同じ環境に共存できなくなります。

宇宙に、宇宙そのもの以外「絶対的な存在」は無いように思います。自分が「絶対」なのは自分にとってだけです。みな相対的な存在で、自分も相手もだいたい等価値です。

差別が好きな人は人を差別するだけではありません。何かにつけて差別します。「どこのスーパー(あるいは銘柄)の牛乳は(卵は、野菜は、肉は・・・)どうも品質が怪しい」

確かな理由があれば、当然差別というか区別すべきですが、客観的な「エビデンス」なしで差別するようなら、差別好きと言わざるを得ません。何かにつけて色目で見る傾向があるように思われます。

人は贔屓したり、疎んじたり、日常、ついついするものですが、そこに理に適った根拠があるのかどうか、つまり正当な区別なのかどうか、絶えず自問する必要があるでしょう。

人には、よく自問自答して、なるべく公正に振る舞おうとする人と、まったく、あるいは殆ど自分の偏見に疑いを持たない人がいます。

前者は、差別的な行動も制御され、抑制されますが、後者は遠慮がありません。自分の好き嫌いを周囲に押し付け、同調する人は仲間、しない人は敵とみなします。

こういう人をどう導くか、心の尺度の狂いをどう気付かせるか、これが人間社会の大きな課題だと思います。

万一このような人が社会の指導的立場に就いてしまうと、社会全体が歪んでしまいます。

政治の世界に入れば、ヒトラーの如く、トランプの如く、最近の日本の如く・・・なってしまいます。

職場に入れば、企業はブラックになり、パワハラやいじめが横行してしまいます。

そうした地位に就かなくても、偏愛と差別的な行為が日常生活で起こり、体罰、虐待、DV等の犠牲者が出たり、家庭や仲間内の理不尽なルールが、歪んだ人間を再生産や増殖したりしかねません。

違法行為となれば取締りの対象になりますが、表沙汰になるのは氷山の一角です。

選挙による代表者の話し合いと諸制度で営まれる民主主義社会ではありますが、社会を構成するメンバーの心の問題は、ブラックボックスのままなんですよね。

いくら筋の通った議論をしても、元々筋とは無関係に自分たちに都合の好い結論を出そうとしている人たちの集まりでは、何の意味もないんですよね。

このブラックボックスを切り開いて、陽の光を当てて、もう少し除菌・殺菌・脱ウィルスをやる方法はないものでしょうかね。

少なくとも、格差・差別化・いじめを好む心理は警戒する必要があろうかと思います。

長くなりましたが、避けて通れない問題と思い、書かせていただきました。

ご高覧ありがとうございました!
(2)にもコメントもいくつかいただいております。ご関心をお寄せいただき感謝しております。


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