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民主主義を機能させるには? [人間考]


むかし、こんな歌がありました。

“ しあわせは 歩いてこない
だから歩いて ゆくんだね
一日一歩 三日で三歩
三歩進んで 二歩さがる
人生は ワン・ツー・パンチ
汗かき べそかき 歩こうよ
あなたのつけた 足あとにゃ
きれいな花が 咲くでしょう
・・・”

『三百六十五歩のマーチ』
水前寺清子さんが歌っていました。
作詞:星野 哲郎、作曲:米山正夫だそうです。

人生は三歩進んで二歩さがる。時代も三歩進んで二歩さがるようです、どうやら。で、今は二歩さがる局面のようです。トランプさんやアベさんの言動がまかり通る世の中を見ていると、そんな気がします。

政治・経済は、自由主義から新自由主義へと思想が移り、政府の規制をより少なくして、競争を活発化させることが豊かさに繋がる道と捉えられるようになりました。

しかし、貧富の格差拡大が、人々の間で、また、国々の間で起きるようになりました。企業間の、また国家間の競争が過激になるばかりです。環境問題の解決にも一向に繋がりません。行き詰っています。

民主主義という政治制度の理念も崩れかけていると思われます。

社会の諸問題は人々の話し合いで解決する。そのためには、公正な選挙制度で代表を選ぶ。会議が行われ、意見が集約される。まとまらないときは多数決で決定される。

こうした制度が備わっていれば民主主義国とみなされます。アメリカも日本もそういう制度を備えていますから民主主義国と自認しています。

しかし、民主主義が人類のたどり着いた理想の政治制度かというと、どうも、不備があるように思えてなりません。理想とは程遠い政治が行われているように思えます。

例えばアベ政治。モリ・カケ・桜見る会問題など、公正さを疑われる事案が数々ありました。その度に、国会で野党側が厳しく追及しました。

公正さが保たれていない事実があるから、証拠を挙げて追及します。事実関係はほぼ明らかなのに、責任の所在が、いくら質問を繰り返しても明白になりません。

誰の責任でそうなったかについての証拠は徹底的に隠蔽されます。隠蔽ではない可能性もありますが、しかし公文書の改ざんや、書類・デジタル記録の破棄など、役所として、およそあり得ない異例の説明をして、責任の所在を明らかにしません。

国会での言論が機能していません。集団的自衛権の行使を容認する法案審議や、特別機密保護法、共謀罪法などの審議も十分には行われず、憲法違反の疑いが濃厚のまま、多数決を強行して成立したものとされました。

民主主義が体裁だけで、国の意思決定の、あるいは行政に非がないことのアリバイに利用されているだけのように思えます。

民主主義の何が重んじられ何が軽視されこうなっているかと言えば、多数決が重んじられ、民主主義の精神が軽視されてこうなっていると言えましょう。

もともと民主主義の諸制度は、主権者国民の合意に至る方策として発展したものです。少なくとも目的はそこにあります。少数者の意見も尊重して合意を得ようとする精神がないと、多数者の横暴にお墨付きを与えるだけのシステムになってしまいます。

多数が承認し多数が満足すればそれでいいではないかとの意見もありましょうが、「多数」というのが絶対多数ではなく、ほとんど常に相対多数です。

35%前後(有権者の20%弱)の得票率で国会の過半数を占める第一党になり、その中で比較多数の指示を得れば最高権力者になるのです。

アメリカでは大統領選挙を控え、警官が黒人を虐待したり、射殺したりする事件が起きました。こうした黒人差別問題に反対する抗議活動が巻き起こっています。

この抗議活動に反対する人たちも現れ、各地で衝突が起きています。そんな中、トランプ大統領は、抗議活動をテロ行為と呼び、警官の行動を称賛する態度をとっています。

トランプ氏の思惑は、国を二分しようが、対立が深まろうが、そんなことは一向に構わないのです。自分の支持者がわずかでも相対多数になればそれでいいのです。

国民の意見を集約するとか、少数者の合意を得るとかいう意思は皆無です。民主主義制度の相対多数を利用しているだけです。

「民主主義国」とは、金科玉条の如く誇らしく言える国の体ではありませんね。民主主義は、制度だけではダメ、前提が必要でした。善意で営まれないとダメなんですね。

善意とは、社会正義を求める精神、人々の幸せの総和を高める方策を求める意欲、簡単に言えば公共心ですよね。これがないと、特に政治家にこの心がないと、民主主義は悪用されるばかりです。

自然科学は、少しずつ真理が解明され、それが着実に積み重ねられ発展します。またそれは技術に応用され、産業化され、人々の生活を変えていきます。その変化は急です。

一方社会科学は、分科されてはいるものの、他分野にも生かされるというほどの真理や法則に至ることはどうもなさそうです。自然科学と比べると、その進歩は曖昧で遅いと言わざるを得ません。

民主主義には前提が必要です。ということは、政治家には一定の資質が求められるということではありませんか。

政治学は「政治は支配の学問」などと言って巧妙に支配する方策を研究・伝授している場合ではないのではありませんか。

民主主義を機能させるに必要な資質を研究し、それを徹底教授して、政治家を育てたり、議員資格試験の必要性を世に問うたりしたらいかがなものでしょう。

民主主義の前提を問い直しましょう!
(長くなってしまいました m(_ _)m )



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