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石原慎太郎氏死去! [人間考]

石原慎太郎氏がお亡くなりになりました。
各局とも在りし日の氏を偲び、巨星としてその死を悼んでいます。他界されたこと、また雄弁な息子が4人もいますから、当然ですよね、テレビ局としては。私も、敢えて彼の在り方を批判するつもりはありません。

ですが、私はこの本で
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書いちゃってますからね。
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「石原慎太郎が見えた」本の元はこのブログですから、このブログにも記事があります。何と①から⑤まで。
https://mo-mo-taro.blog.ss-blog.jp/2014-06-13

ちょっと触れておきます。(引用します)

【 『永遠なれ、日本』(中曽根康弘・石原慎太郎著)・・・これは「元総理と都知事の語り合い」というサブタイトルが付いていて対談形式で書かれている。真っ赤なカバーに白抜きで、本のタイトルと2人の名前が書かれている。PHPの本だ。2人の著者の思いがこの扇情的なブックカバーに現れているのだろう。・・・さて、慎太郎さんだが・・・こんな戦争体験を明かす。

「ある日、空襲警報が鳴る直前に警戒警報が鳴って学校の先生たちは『もう帰れ』という。学校を出ると、すでに戦局が危なくなっていて、すぐに空襲警報に変わりました。学校の近くにある烏森という大きな森に向かおうとしたのですが、途中、麦畑を走っているときにP51が来て、機銃掃射された。麦畑は畔が深いのでP51からは見えないのですが、…、こわごわ頭を上げて仰いでみたら、胴体に何やら原色で漫画を描いた敵機が見えた。あの彩色とデザインのあざとさこそ、生まれて初めて目にした敵国の文化だった。

 そのあと二百メートルぐらいで森というときに、今度は芋畑を通るのですが、芋畑は畔が浅い。ほとんど野ざらしのようなところを走っていると、また爆音が聞こえてきた。やられるかなと思っていたら、なかなか機銃を撃ってこない。どうしたのかと思って仰向くと、友軍の戦闘機の姿が見えた。

 日の丸を付けた日本の飛行機が、あのあざとい絵の描いたP51を追いやったのです。このときは、その日の丸に向かって、ふるいつきたくなるような感情を抱きました。感動というのとは違う、たまらぬ懐かしさのような感じです。あのたまらなさはことさらの愛国心などというものではなく、まさに国家と民族そのものでした。」

 戦時中は多くの人が生死の境を体験し、様々な心的影響を受けている。石原氏も芋畑で無慈悲な機銃に一撃されてしまうことなく生き延びられてよかったと思うが、石原氏の更なる特異性が、この体験談の直後に出てくる。

「ささやかながら、そんな原体験を私も持っているのですが、私より少し若い世代の人たちには、そういうものが一切ない。そこに欠落したものを感じるようです。」

 石原氏の体験は、戦争という特殊な時代背景で起こった、稀とは言えないまでも特殊な個人的なものだったという受け止め方をするのが一般的と思うが、氏の受け止め方はそうではない。このような体験を通じて、国家や民族を感じ、まともな人間が形成されたのであって、このような体験をしていない若い世代の人たちは、欠落したものを感じていると受け止めている。

 自分の若かりし頃の体験が特殊なのではなく、そうした体験ができないことが特殊な時代の不幸なのだ言わんばかりである。自らの体験を絶対視し、それを客観的に見直そうとする姿勢はどこにも見受けられない。

 そんな石原氏が、次章の「人間観・死生間」ではこうも語る。
「先ほど中曽根さんは、自分の悟りを中曽根『大宇宙生命教』だとおっしゃいましたが、じつは私も自分が日ごろ語っていることを『石原教』といっています。信者は私しかいませんし、教祖も私です。…。

 いずれにせよ、自分の存在についての強固な観念の基軸を持っていたら、その人間は強いと思います。」と自覚しているので、ますます強い。

(途中はすべて省略して)

 さて、他人の批判などはもとより毛頭したくないのだが、石原氏は支持者が多く日本の社会に大きな影響力を持っている人なので、中曽根氏との対談本から見えた人物像を書き出してみた。

 彼は、感性が鋭く頭の切れる人物で、思ったことを発言、実行しようとする勇気のある人である。だが、自分が味わった体験とそこから考え出したことを、人類や日本の歴史、そこから出てくる方向性と照らして相対化することをしそびれた人と言うことができると思う。自分の感性を絶対視し過ぎているように思える。戦時体験もそうだが、宇宙観もそうである。

 先ほどの「おもしろい本」の紹介のすぐ後で「では人類がそのような状態になったら地球はどうなるでしょうか。そもそも地球は、その存在を認識する人間がいるからこそ、地球たり得るのですからね。あと五、六十年で人類が絶えてカラスやゴキブリだけが生き残っても、認識の主体者がいなくなるのだから、地球が存在していることにはならなくなる。」と平気で述べている。

 果たして人間だけが認識の主体者であって、カラスやゴキブリを虫けらのように、いやその虫けらを宇宙のほこりのように軽んじていいのだろうか。さすがに無機物と飛び交うエネルギーだけでできている惑星や宇宙の存在なら、その意味を疑い得ても、人間以外の生き物をああまで簡単に切り捨ててしまう物の見方は、石原氏特有の呑気さの表れと言えるだろう。

「人類が絶えて」とこれもあっさりと言っているが、人類が絶えたかどうか、いつ、だれが認識できるというのだろうか?人が分かるのは、精々、自分(と周囲)が絶えることぐらいのものである。

 人間が中心、日本が中心、自分の考えが中心・・・人は成長するに従い、こうしたことを相対化していくものである。また、すべて相対化しなければ、公の役には立てないのである。選挙民は人をよく見て、公の役に立つ人を選ばなければなるまい。近頃は二世、三世議員が多いが、こういう人ほど相対化がうまくできていない例が多いように思えるのだ。】

そんなふうに見えた石原氏ですが、尊敬すべきところはもちろんあります。存在感が強かった。ということは、言いたいことを言い、やりたいことをやってきた。(ちょっと迷惑でしたがね)

私なども、このブログではお国や社会に対して言いたいことを言ってますが、お家では、周囲が強くて、なかなか存在感が発揮できません。

たまにバイトの休みがあるとこんなことをしてます。日が当たるわずかの時間に、第九を聴きながら、ペットボトル潰し。

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飲んだ者がラベルを剥いて潰せばいいだけなんですけどね、誰もやらない。その量が半端ではないんですよ。月に100個はあるでしょうね。
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石原さんはこんなことはやらなかったでしょうね。他の人にやらせた。その点だけでも、私の百倍は偉かった!

ところで冬季五輪が始まりましたね。昨夜は眠くて寝ちゃったけれど、今朝、テレ朝、松岡さんの解説のヤツ、観ましたよ。
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習近平さん、うまく演出しましたね。ヨーロッパ人の心を掴みにいきましたね。(人権や住民の意思を無視した強行策を実行しつつ!)

本日は以上です。


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