すっかり忘れていたことを思い出しました [教育関連]
こんな話題はどうでしょう?
興味を持っていただけるか、そんなの関係ね、となるか?
昔々の数学のお話です。
先日、こんな質問を受けました。
【 X>0のとき X+3/X の最小値を求めなさい 】
あれまあ、やり方がさっぱり思い浮かびません。最小値といえば、二次関数や範囲のある三次関数で問われることが多いものです。あるいは三角関数で。
二次関数だと平方完成します。
X2乗+6X +5 なら(X+3)2乗−4 に直して、最小値は −4と出ます。
ところが既出の問題はどうやれば最小値に迫れるのかさっぱり方法が思い浮かびません。
「ちょ、ちょっと解答見せてくれる?」早々と兜を脱いじゃいました。
「えっ、相加平均・相乗平均?」
久しく思い起こしたことのなかった学習分野の応用問題でした。
正の数同士のとき、相加平均は相乗平均以上 という定理がありました。
相加平均とは足して2で割ったもの。
相乗平均とは掛けてルートをつけたものです。
例えば、2と4だと、相加平均は3、相乗平均はルート8で3のほうがルート8(2.828…)より大きいという訳です。
この定理は、(a−b)2乗 ≧ 0 から導けます。
展開すると a2乗−2ab+b2乗 ≧ 0
a2乗+b2乗 ≧ 2ab 両辺を2で割ると
(a2乗+b2乗)÷ 2 ≧ ab
a2乗をA、b2乗をBと置き換えると
(A+B)÷ 2 ≧ ルートAB が得られます。
こんなことすっかり忘れていました。
ということは、
( X+3/X )÷ 2 ≧ ルートX × 3/X
X+3/X ≧ 2 × ルート3
つまり X+3/X は 2 ルート3以上なのです。
ということは最小値は 2 ルート3でした。
スマホ投稿だと数式がうまく表せないので、わかりにくくてイライラされたことでしょう。申し訳ありませんでした。
すっかり忘れていたことが蘇ってくると嬉しいものですので、思い切って記事にしてみました!
お付き合いいただき(あるいはお付き合いいただけなくても)ありがとうございました m(_ _)m
興味を持っていただけるか、そんなの関係ね、となるか?
昔々の数学のお話です。
先日、こんな質問を受けました。
【 X>0のとき X+3/X の最小値を求めなさい 】
あれまあ、やり方がさっぱり思い浮かびません。最小値といえば、二次関数や範囲のある三次関数で問われることが多いものです。あるいは三角関数で。
二次関数だと平方完成します。
X2乗+6X +5 なら(X+3)2乗−4 に直して、最小値は −4と出ます。
ところが既出の問題はどうやれば最小値に迫れるのかさっぱり方法が思い浮かびません。
「ちょ、ちょっと解答見せてくれる?」早々と兜を脱いじゃいました。
「えっ、相加平均・相乗平均?」
久しく思い起こしたことのなかった学習分野の応用問題でした。
正の数同士のとき、相加平均は相乗平均以上 という定理がありました。
相加平均とは足して2で割ったもの。
相乗平均とは掛けてルートをつけたものです。
例えば、2と4だと、相加平均は3、相乗平均はルート8で3のほうがルート8(2.828…)より大きいという訳です。
この定理は、(a−b)2乗 ≧ 0 から導けます。
展開すると a2乗−2ab+b2乗 ≧ 0
a2乗+b2乗 ≧ 2ab 両辺を2で割ると
(a2乗+b2乗)÷ 2 ≧ ab
a2乗をA、b2乗をBと置き換えると
(A+B)÷ 2 ≧ ルートAB が得られます。
こんなことすっかり忘れていました。
ということは、
( X+3/X )÷ 2 ≧ ルートX × 3/X
X+3/X ≧ 2 × ルート3
つまり X+3/X は 2 ルート3以上なのです。
ということは最小値は 2 ルート3でした。
スマホ投稿だと数式がうまく表せないので、わかりにくくてイライラされたことでしょう。申し訳ありませんでした。
すっかり忘れていたことが蘇ってくると嬉しいものですので、思い切って記事にしてみました!
お付き合いいただき(あるいはお付き合いいただけなくても)ありがとうございました m(_ _)m
運動会がありました! [教育関連]
昨日は市内の小学校が一斉に運動会をしました。
むかしむかし「朝から青空日本晴れ、集まる我らの運動会・・・」こんな歌を歌ってまだ青いみかんを食べた思い出があります。
昨日は朝から曇天でした。でも気分がすっきりしないというよりは、降らず照らずの絶好の運動会日和だったような気がします。
むかしの運動会はほぼ十月十日前後にやっていました。秋雨も終わった後、一月ぐらいの時間をかけて練習したりのぼり旗を作るなど準備をしたりして臨んだものでした。軍隊の名残があったのでしょうか、やたら行進をさせられた記憶があります。
今は夏休みが明けるとすぐ、残暑が厳しい中、熱中症を警戒しながら練習を始めます。期間は3週間ですが日数では15日もありません。時間数で10時間程度の練習で本番となります。
運動が苦手な児童もいますから、それほど一生懸命に取り組む必要もないだろうということなのでしょうか、むかしほど力の入った行事ではありません。それでも一日中校庭にいて、出番があったり応援したり、家族と昼食を食べたりする特別な一日ではあります。
子どもたちの体力については、個人差を感じますね。サッカーや野球などのクラブに入って体力を強化している子もいれば、まったくしていない子もいます。スポーツが苦手だというのも個性の内かもしれませんが、足腰、腹筋、腕力などが極端に弱いと、体力、生命力にも関わる問題ではないかという気もします。
小さい時から運動嫌いにしないことが、ついでに勉強嫌いにしないことも、大事なのではないでしょうか。
筋力が足りないと何事もうまくできません。使う筋肉は力がつくし、使わなければつきません。日頃から少しずつ筋力(や考える力)をつけてやることが肝要ではないかと思います。
むかしむかし「朝から青空日本晴れ、集まる我らの運動会・・・」こんな歌を歌ってまだ青いみかんを食べた思い出があります。
昨日は朝から曇天でした。でも気分がすっきりしないというよりは、降らず照らずの絶好の運動会日和だったような気がします。
むかしの運動会はほぼ十月十日前後にやっていました。秋雨も終わった後、一月ぐらいの時間をかけて練習したりのぼり旗を作るなど準備をしたりして臨んだものでした。軍隊の名残があったのでしょうか、やたら行進をさせられた記憶があります。
今は夏休みが明けるとすぐ、残暑が厳しい中、熱中症を警戒しながら練習を始めます。期間は3週間ですが日数では15日もありません。時間数で10時間程度の練習で本番となります。
運動が苦手な児童もいますから、それほど一生懸命に取り組む必要もないだろうということなのでしょうか、むかしほど力の入った行事ではありません。それでも一日中校庭にいて、出番があったり応援したり、家族と昼食を食べたりする特別な一日ではあります。
子どもたちの体力については、個人差を感じますね。サッカーや野球などのクラブに入って体力を強化している子もいれば、まったくしていない子もいます。スポーツが苦手だというのも個性の内かもしれませんが、足腰、腹筋、腕力などが極端に弱いと、体力、生命力にも関わる問題ではないかという気もします。
小さい時から運動嫌いにしないことが、ついでに勉強嫌いにしないことも、大事なのではないでしょうか。
筋力が足りないと何事もうまくできません。使う筋肉は力がつくし、使わなければつきません。日頃から少しずつ筋力(や考える力)をつけてやることが肝要ではないかと思います。
「公民」学習の目的は? [教育関連]
子どもの勉強関連の仕事をしていると
時々びっくりすることがあります。
今回は中学校の社会科、公民のことです。
学校で使っている補助教材
の第1ページです。
現代社会の特色についてまとめています。
何について驚いているかというと、現代社会の様々な問題をたったの1ページでまとめている点です。
1️⃣ グローバル化について
文字起こししますので、まずは問題に取り組んでみてください。
【 人、物、お金、情報などが国境をこえて移動する( ① )化によって、世界の( ② )が進んでいる。
輸出入が簡単になると、より良い品物を安く提供する( ③ )が進み、競争力のない産業は輸入に頼る( ④ )が行われる。
日本は食料品の輸入が増えたことで、( ⑤ )が低下。
地球温暖化などの国際問題が増え、国際協力が必要となる。
多様な文化を持った人々が共生する( ⑥ )となっている。
2️⃣ 情報化について
私たちは新聞やテレビなどの( ⑦ )を活用し、情報を得ている。情報通信技術(ICT)の発達により、情報化が進んだ。インターネット・ショッピングや電子マネーが普及している。
情報社会では、情報を正しく活用する情報( ⑧ )を身に付け、正しく利用する情報( ⑨ )を持たなければならない。
3️⃣ 少子高齢化について
日本は、合計特殊( ⑩ )の減少と平均寿命ののびによる少子高齢化で、( ⑪ )となった。さらに出生数が死亡数を下回り、人口は減少している。
家族の形態は、親と子供や夫婦だけの( ⑫ )世帯が増えた。
国民一人あたりの経済的な負担の増加への対応と、介護サービスなどの( ⑬ )の充実の両立が課題となっている。
4️⃣ 持続可能な社会に向けて
社会の課題を解決するため、現在と将来の世代の幸福とが両立できる、( ⑭ )社会の考えに立つ必要がある。
東日本大震災では( ⑮ )が活躍。
積極的な社会( ⑯ )が大切である。 】
ご参考までに正解は
【 ① グローバル ② 一体化 ③ 国際競争 ④ 国際分業 ⑤ 食料自給率 ⑥ 多文化 ⑦ メディア ⑧ リテラシー ⑨ モラル ⑩ 出生率 ⑪ 少子高齢社会 ⑫ 核家族 ⑬ 社会保障 ⑭ 持続可能な ⑮ ボランティア ⑯ 参画 】となっています。
問題の多いことを、あっさりと適当な言葉だけで解説していますよね。
初っ端の【 グローバル化によって、世界の一体化が進んでいる 】という件にしても、企業は割とたやすく国境を越えて活動しますが、政治の方は国境のガードが固く、とても一体化が進んでいるなんて言えませんよね。国と国との対立は、むしろ深刻になっています。
【 国際貿易が進み・・・国際分業が行われる 】の件も、ザックリしすぎています。
少子高齢化の件
【 日本は、合計特殊出生率の減少と平均寿命ののびによる少子高齢化で、少子高齢社会となった。】と書いていますが、なぜ出生率が減ったのか、そこには目を向けず、算術的な説明しかしていません。
全体に、社会で起こっている現象に気付かせ、その原因や対策を考えさせるのではなく、上っ面を説明する言葉を覚えさせることに終始しています。
社会科は言葉を覚える学問なのでしょうか?
社会科を教えている先生方、ぜひ現実の問題を直視して、社会に出た折にはどのように諸問題に関わっていくか、そういう態度の形成に役立つ授業をしてください。
それをしないと明日の社会が良くなりませんよ!
そんなことを感じた次第です。
本日は以上です。暑さもさることながら、ハートも熱くなり、眠れぬ夜となりそうです。
国際単位を早期に導入するなら [教育関連]
前の記事で、国際単位への移行が学ぶ者を遠ざけていないかという趣旨のことを書きました。
熱量の単位でも同じことが起きています。それを書きますが、着地点が、実は少し変わりそうです。
熱量の単位と言えば、かつてはcal(カロリー)でした。
1cal は、水1gの温度を1度上昇させるのに必要な熱量とされていましたから大変わかりやすかった。
100gの水の温度を20度上げるには2000cal必要です。そんな計算だけでなくcalの使用で役に立ったったのは、水を凍らせる、あるいは逆に氷を融かすのに必要な熱量の理解です。
0℃の氷1gを融かして0℃の水にするには約80cal必要なのです。水の温度を1度上げるのに必要な熱量の80倍必要です。逆に凍るときにもそれだけの熱量が放出されます。これは融解熱ないし凝固熱として習いました。
水が沸騰して気体になるときには、1g当たり約539calの熱量が必要です。1度上げる熱量の539倍です。莫大でしょう?火事を消すときに消防自動車が盛んに水をかけていますが、この気化熱を利用しているんですね。
そんなことが印象深く頭に刻まれて、物理に興味を持つきっかけにもなりました。
ところが今はcal はなるべく使わないこととされています。理由としては、水の温度を1度上げる熱量は、厳密には、何度の水を1度上げるかによって微妙に違うことや、他の単位系と融合しにくいことなどがあるようです。
国際単位SIの熱量はJ(ジュール)です。
1Jは1Ν(約102g重)の力がその力の方向に物体を1m動かすときの仕事量で、1ボルトの電圧下で1アンペアの電流が1秒間流れたときに発生する熱量でもあります。定義は少しもややこしくないのですが、全然ピンとはきません。
熱量として実感できる水の温度変化につなげるには、水1gを1度上昇させるのに必要な、例のcalとの変換が必要です。
1Jは約0.24cal、1calは約4.2Jです。
そこで、氷の融解熱は約334J/g、気化熱は約2257J/gとなります。
どんどんピンと来なくなります。
ここでも理科に興味を持つ人を減らすことになりそうです。
大系的に正確に学習を進めることよりも、まずは身の回りの物の性質に興味を持つことが大事です。それをしないと、勉強を放棄する人が増え、物の性質を知らない人ばかりになってしまいます。
以上のことから
「中学段階では解りやすい単位で定量的に興味を持たせ、より正確な学習に移るのは高校段階にすべきではないか」
と主張するつもりでした。
ところがこれを書くにあたって色々調べているうちに、現代人が到達すべきレベルの高さを考えると、それでは遅いのかも知れないと思ってしまいました。
興味を持たせつつ早い段階で大系的な学習を進めるには、定量的に興味を持たせることを小学校の高学年に下げることが必要なのではないかと思い始めました。
これではまるで逆ですが、テレビでも多くのことが学べる時代に、小学校の低・中学年の学習のテンポが遅いのではないかと感じることが多々あることを思い起こすと、解決策はそこにあるのではないかと思います。
詰め込みではなく、日常の目に見えない量的なことに興味を持たせることを早い段階でやるべきではないかということです。
こんなことを思うと、今の六・三・三・四制を四・四・四・四制に組み替えた方が合理的なのではないかと、自論に確信を深めてしまいました。
小学校の6年は長過ぎ、中・高の3・3は進学対策もあり短か過ぎます。高校の学習はレベルも高く、理解すること、覚えることが多過ぎます。
時代に合った学制改革を、そろそろ本気で考えるべきではないかと思う次第です。
書き出したときと違う結論に達しましたが、皆さまのご感想はいかがでしょうか?
物理の単位について、ご興味ありましたらネットで調べてみてください。
熱量の単位でも同じことが起きています。それを書きますが、着地点が、実は少し変わりそうです。
熱量の単位と言えば、かつてはcal(カロリー)でした。
1cal は、水1gの温度を1度上昇させるのに必要な熱量とされていましたから大変わかりやすかった。
100gの水の温度を20度上げるには2000cal必要です。そんな計算だけでなくcalの使用で役に立ったったのは、水を凍らせる、あるいは逆に氷を融かすのに必要な熱量の理解です。
0℃の氷1gを融かして0℃の水にするには約80cal必要なのです。水の温度を1度上げるのに必要な熱量の80倍必要です。逆に凍るときにもそれだけの熱量が放出されます。これは融解熱ないし凝固熱として習いました。
水が沸騰して気体になるときには、1g当たり約539calの熱量が必要です。1度上げる熱量の539倍です。莫大でしょう?火事を消すときに消防自動車が盛んに水をかけていますが、この気化熱を利用しているんですね。
そんなことが印象深く頭に刻まれて、物理に興味を持つきっかけにもなりました。
ところが今はcal はなるべく使わないこととされています。理由としては、水の温度を1度上げる熱量は、厳密には、何度の水を1度上げるかによって微妙に違うことや、他の単位系と融合しにくいことなどがあるようです。
国際単位SIの熱量はJ(ジュール)です。
1Jは1Ν(約102g重)の力がその力の方向に物体を1m動かすときの仕事量で、1ボルトの電圧下で1アンペアの電流が1秒間流れたときに発生する熱量でもあります。定義は少しもややこしくないのですが、全然ピンとはきません。
熱量として実感できる水の温度変化につなげるには、水1gを1度上昇させるのに必要な、例のcalとの変換が必要です。
1Jは約0.24cal、1calは約4.2Jです。
そこで、氷の融解熱は約334J/g、気化熱は約2257J/gとなります。
どんどんピンと来なくなります。
ここでも理科に興味を持つ人を減らすことになりそうです。
大系的に正確に学習を進めることよりも、まずは身の回りの物の性質に興味を持つことが大事です。それをしないと、勉強を放棄する人が増え、物の性質を知らない人ばかりになってしまいます。
以上のことから
「中学段階では解りやすい単位で定量的に興味を持たせ、より正確な学習に移るのは高校段階にすべきではないか」
と主張するつもりでした。
ところがこれを書くにあたって色々調べているうちに、現代人が到達すべきレベルの高さを考えると、それでは遅いのかも知れないと思ってしまいました。
興味を持たせつつ早い段階で大系的な学習を進めるには、定量的に興味を持たせることを小学校の高学年に下げることが必要なのではないかと思い始めました。
これではまるで逆ですが、テレビでも多くのことが学べる時代に、小学校の低・中学年の学習のテンポが遅いのではないかと感じることが多々あることを思い起こすと、解決策はそこにあるのではないかと思います。
詰め込みではなく、日常の目に見えない量的なことに興味を持たせることを早い段階でやるべきではないかということです。
こんなことを思うと、今の六・三・三・四制を四・四・四・四制に組み替えた方が合理的なのではないかと、自論に確信を深めてしまいました。
小学校の6年は長過ぎ、中・高の3・3は進学対策もあり短か過ぎます。高校の学習はレベルも高く、理解すること、覚えることが多過ぎます。
時代に合った学制改革を、そろそろ本気で考えるべきではないかと思う次第です。
書き出したときと違う結論に達しましたが、皆さまのご感想はいかがでしょうか?
物理の単位について、ご興味ありましたらネットで調べてみてください。
学ぶ者を遠ざけた?国際単位の導入 [教育関連]
前置きが長かったですが、理科離れの原因の一つになっているのではないかと指摘したいことは単純です。中学で教えている理科です。
理科は生物、地学、化学、物理と大きく4分野に分かれています。動植物を扱う生物は小学校ではフィールドワークもあり、昔より充実しているように思います。
化学は進歩してますからね、知識として教えることが増えました。増えすぎて消化不良になっているかも知れません、特に高校段階では。
気になっているのは物理の分野です。
質量と重さは違う概念であることが教えられます。
質量はご存知、グラムという単位で表されます。一方重さは、その質量の物体を支える力の大きさとして、かつてはグラムに重をつけてグラム重という単位で表していました。たとえば100gの物体があるとすると100gが質量で、100g重がそれを支える力の大きさということです。
重が何かということは高校で教えられました。
まず力を表す単位として、1kgの質量を持つ物体に1m/s²の加速度を生じさせる力を1N(ニュートン)とすることが教えられます。
地球の重力加速度がどれほどかというと、真空中の落下物が1秒につき約9.8m/sずつ速さを増すことから、約9.8m/s²であることを学びます。
そうすると、1kg重は約9.8Nと変換されることになります。
今は中学校段階からN(ニュートン)が登場します。つまり「重」は廃棄されました。
力の単位Nはどのように登場するかというと、1kg重は約9.8Nですからざっくり言えば10Nです。ということは1Nは100g重です。
このことから100gの物体を支える力の大きさ=1N
という関係で力の大きさを機械的に表すこととされます。
重力加速度も9.8という数字も登場しません。
これだけのことならそれほどの大問題=撹乱材料でもありませんが、力の大きさの次に圧力を習います。
圧力は単位面積にかかる力の大きさのことで、かつては1㎠ 当たり何g重の力がかかっているか、つまりg重/㎠ という単位で捉えていました。
今はN/㎡ 、つまり1㎡当たり何Nの力がかかっているかで捉えます。これが圧力の大きさを表す単位 Pa(パスカル)であることも教えられます。
「はあはあ、そうですか」という程度の話ですが、これが生徒に与えられる問題となると、例えば、底面が5㎝ × 10㎝、高さが8㎝の直方体の物体の質量が350gだとすると、底面の圧力の大きさは何Paか?となります。
かつての正解は350g重 ÷ 50㎠ で7g重/㎠でした。つまり1㎠当たり7g重の力がかかっていると理解できます。
今は、質量350gの物体が面に及ぼす力の大きさは3.5Nです。底面が何㎡かというと、0.05m × 0.1m = 0.005㎡ です。
3.5N ÷ 0.005㎡ で計算されます。答は700Paです。
つまり1㎡当たり700Nの力が働いているということです。かなり煩わしい計算をして、ピンとこない答えが正解となります。
この改変は国際単位に早くから馴染ませようという目的でなされたものと思いますが、しかしどうですか、学ぶ者を遠ざけていませんか?
学ぶ者からすると、身近であるべき物理が、十代半ばで遠くに行ってしまったという印象を持ちませんかねぇ?
心配です。
同じことが熱量の単位でも起きていますが、その説明は次回に回すことにして、取り敢えずこれにて投稿しておきます。
ご感想をお聞かせいただけましたら幸いです。
理科は生物、地学、化学、物理と大きく4分野に分かれています。動植物を扱う生物は小学校ではフィールドワークもあり、昔より充実しているように思います。
化学は進歩してますからね、知識として教えることが増えました。増えすぎて消化不良になっているかも知れません、特に高校段階では。
気になっているのは物理の分野です。
質量と重さは違う概念であることが教えられます。
質量はご存知、グラムという単位で表されます。一方重さは、その質量の物体を支える力の大きさとして、かつてはグラムに重をつけてグラム重という単位で表していました。たとえば100gの物体があるとすると100gが質量で、100g重がそれを支える力の大きさということです。
重が何かということは高校で教えられました。
まず力を表す単位として、1kgの質量を持つ物体に1m/s²の加速度を生じさせる力を1N(ニュートン)とすることが教えられます。
地球の重力加速度がどれほどかというと、真空中の落下物が1秒につき約9.8m/sずつ速さを増すことから、約9.8m/s²であることを学びます。
そうすると、1kg重は約9.8Nと変換されることになります。
今は中学校段階からN(ニュートン)が登場します。つまり「重」は廃棄されました。
力の単位Nはどのように登場するかというと、1kg重は約9.8Nですからざっくり言えば10Nです。ということは1Nは100g重です。
このことから100gの物体を支える力の大きさ=1N
という関係で力の大きさを機械的に表すこととされます。
重力加速度も9.8という数字も登場しません。
これだけのことならそれほどの大問題=撹乱材料でもありませんが、力の大きさの次に圧力を習います。
圧力は単位面積にかかる力の大きさのことで、かつては1㎠ 当たり何g重の力がかかっているか、つまりg重/㎠ という単位で捉えていました。
今はN/㎡ 、つまり1㎡当たり何Nの力がかかっているかで捉えます。これが圧力の大きさを表す単位 Pa(パスカル)であることも教えられます。
「はあはあ、そうですか」という程度の話ですが、これが生徒に与えられる問題となると、例えば、底面が5㎝ × 10㎝、高さが8㎝の直方体の物体の質量が350gだとすると、底面の圧力の大きさは何Paか?となります。
かつての正解は350g重 ÷ 50㎠ で7g重/㎠でした。つまり1㎠当たり7g重の力がかかっていると理解できます。
今は、質量350gの物体が面に及ぼす力の大きさは3.5Nです。底面が何㎡かというと、0.05m × 0.1m = 0.005㎡ です。
3.5N ÷ 0.005㎡ で計算されます。答は700Paです。
つまり1㎡当たり700Nの力が働いているということです。かなり煩わしい計算をして、ピンとこない答えが正解となります。
この改変は国際単位に早くから馴染ませようという目的でなされたものと思いますが、しかしどうですか、学ぶ者を遠ざけていませんか?
学ぶ者からすると、身近であるべき物理が、十代半ばで遠くに行ってしまったという印象を持ちませんかねぇ?
心配です。
同じことが熱量の単位でも起きていますが、その説明は次回に回すことにして、取り敢えずこれにて投稿しておきます。
ご感想をお聞かせいただけましたら幸いです。
ゆとり教育の正体は? [教育関連]
今日は教育のことを少々書こうと思います。
少々と言っても教育は大テーマです。教育と一口に言いますが、家庭での教育、学校での教育、その他地域社会やメディアでの教育などがあります。
教育が行われる場所が様々なうえ、胎教から始まって、幼少期、青少年期、生涯学習に至るまで年齢による違いもあります。
教育を問題として考察するときには、どの場所のどんな発達段階の、どんなことを取り上げようとしているのかを明確に意識して取り掛からなければいけません。
当然、あちこちに様々な問題があります。ですから、教育問題については、まずはマップが、地図が必要です。
ここの問題について考えますよ。この問題を解決するには、こういう対策を取る必要があるのではないでしょうか、と提案することが教育問題への正しいアプローチではないかと思います。
冒頭になぜこんなことを言わなければならないかというと「これは教育問題だ」と社会が感じると、目がすぐに学校教育に向けられる傾向があるからです。向けられた学校は、それは家庭や、地域、社会の問題だろうと突き返すことはしません。
教育を一手に引き受けているという自負があるからでしょうか、教育上の問題と指摘されると、文科省の指導のもと、学校教育の中で改善策が考えられ、実行されます。
例を挙げますと数年前まで実施されていた「ゆとり教育」です。Wiki に依りますと
ゆとり教育(ゆとりきょういく)とは、日本において、1980年度(狭義では2002年度以降)から2010年代初期まで実施されていたゆとりある学校を目指した教育のことである。
とのこと。
内容は知識偏重、暗記重視の詰め込み教育をやめて、ゆとりを持って自分で感じ考え表現する力をもっと育んで行こうとするものでした。
具体的には学校で実施していた業者テストとそこで出される偏差値による進路指導をやめること、学習内容を減らすこと、総合学習の時間を設けるなどして生きる力の育成を図ることなどでした。
なぜこのような教育改革が行われたかというと、小・中学生の勉強が業者テストや入学試験対策に向かいがちで、塾通いが過熱していると思われたからでした。
生徒の学力を業者テストの偏差値で輪切りにし、それによって進路指導が行われていることは、学習指導の主導権が業者に握られていたようなものです。
これではいかんと気づいたのでしょう、改革が始まりました。まずは、業者テストと偏差値が悪者にされ、学校現場から追放されました。
安易に頼り過ぎた学校側の姿勢が悪かったということでもありそうですから、その姿勢を静かに改めれば良かっただけのこととも思われますが、とにかく連日新聞記事を賑わせながら、一大教育改革として、業者テストと偏差値の姿が学校現場から消されました。
ここには公立高校の入試問題のあり方、中学校の進路指導のあり方、進学を目指す普通高校への進路希望の集中=専門高校への志望の減少、塾に通わせる家庭の志向、社会や家庭、学校がもたらすべき価値観多様化の不足など、様々な問題があったのです。
学校が業者テストをしなくなり、偏差値を進路指導に用いなくなり、学習内容を減らせば問題が解決されるという問題ではありません。
業者テストは学校外で元気に生き残り、偏差値は元々便利で客観的な統計上のツールですから、合否の目安として活躍し続けました。
進路指導や高校入試の問題はなくなるはずもなく、依然として、十五の春を悩ませています。
学習内容の減少は、ゆとり世代の学力不足として懸念され、今はどんどん増やされています。
こういうことがあるので、教育問題マップを作り、個々の問題にきめ細かく対処法を検討していく必要があると思うのです。
さてその中で、理系不足、理科離れの一因として、中学校の理科を取り上げたいのですが、お固い話をくだくだと続けて来たので、今日はもうやめようと思います。続きはまたの機会と致します。
で、脱線します。
この頃、記事の更新が極めて少なくなりました。パソコンが故障してしまって起動しなくなり、スマホからの投稿になったことが第一の原因です。
パソコンについては「使っていないノートがあるのでどうぞ」とくださった奇特な方がいらっしゃるので、ほぼ使えるようになっています。しかし前のパソコンに入れてあったデータが取り出せないことに変わりはないので、まだ落胆が残っています。
暮には、家でスマホを使うことが多いので、家族のこともあり、光回線を入れることにしました。先日、外線工事も終わり、光が使えるようになりました。
パソコンは使えるし、光は入ったし、どんどん更新すれば良いのですが、実はもう一つ困ったことが起こっているのです。昨年末から愛用のコンパクトカメラが行方不明なのです。
これがあれば元気百倍なのですが、どこに潜ってしまったのかなかなか出て来ません。代わりのカメラはあるのですが、中身に未練があるのです。
というわけで珍しく鬱が晴れない momotaro ですが、ま、諦めればいいだけのことですから、遠からず元気が戻ってくるでしょう。
長々つまらぬことを書いてしまいましたねぇ
お付き合いいただいた方には心よりお礼を申し上げます。
少々と言っても教育は大テーマです。教育と一口に言いますが、家庭での教育、学校での教育、その他地域社会やメディアでの教育などがあります。
教育が行われる場所が様々なうえ、胎教から始まって、幼少期、青少年期、生涯学習に至るまで年齢による違いもあります。
教育を問題として考察するときには、どの場所のどんな発達段階の、どんなことを取り上げようとしているのかを明確に意識して取り掛からなければいけません。
当然、あちこちに様々な問題があります。ですから、教育問題については、まずはマップが、地図が必要です。
ここの問題について考えますよ。この問題を解決するには、こういう対策を取る必要があるのではないでしょうか、と提案することが教育問題への正しいアプローチではないかと思います。
冒頭になぜこんなことを言わなければならないかというと「これは教育問題だ」と社会が感じると、目がすぐに学校教育に向けられる傾向があるからです。向けられた学校は、それは家庭や、地域、社会の問題だろうと突き返すことはしません。
教育を一手に引き受けているという自負があるからでしょうか、教育上の問題と指摘されると、文科省の指導のもと、学校教育の中で改善策が考えられ、実行されます。
例を挙げますと数年前まで実施されていた「ゆとり教育」です。Wiki に依りますと
ゆとり教育(ゆとりきょういく)とは、日本において、1980年度(狭義では2002年度以降)から2010年代初期まで実施されていたゆとりある学校を目指した教育のことである。
とのこと。
内容は知識偏重、暗記重視の詰め込み教育をやめて、ゆとりを持って自分で感じ考え表現する力をもっと育んで行こうとするものでした。
具体的には学校で実施していた業者テストとそこで出される偏差値による進路指導をやめること、学習内容を減らすこと、総合学習の時間を設けるなどして生きる力の育成を図ることなどでした。
なぜこのような教育改革が行われたかというと、小・中学生の勉強が業者テストや入学試験対策に向かいがちで、塾通いが過熱していると思われたからでした。
生徒の学力を業者テストの偏差値で輪切りにし、それによって進路指導が行われていることは、学習指導の主導権が業者に握られていたようなものです。
これではいかんと気づいたのでしょう、改革が始まりました。まずは、業者テストと偏差値が悪者にされ、学校現場から追放されました。
安易に頼り過ぎた学校側の姿勢が悪かったということでもありそうですから、その姿勢を静かに改めれば良かっただけのこととも思われますが、とにかく連日新聞記事を賑わせながら、一大教育改革として、業者テストと偏差値の姿が学校現場から消されました。
ここには公立高校の入試問題のあり方、中学校の進路指導のあり方、進学を目指す普通高校への進路希望の集中=専門高校への志望の減少、塾に通わせる家庭の志向、社会や家庭、学校がもたらすべき価値観多様化の不足など、様々な問題があったのです。
学校が業者テストをしなくなり、偏差値を進路指導に用いなくなり、学習内容を減らせば問題が解決されるという問題ではありません。
業者テストは学校外で元気に生き残り、偏差値は元々便利で客観的な統計上のツールですから、合否の目安として活躍し続けました。
進路指導や高校入試の問題はなくなるはずもなく、依然として、十五の春を悩ませています。
学習内容の減少は、ゆとり世代の学力不足として懸念され、今はどんどん増やされています。
こういうことがあるので、教育問題マップを作り、個々の問題にきめ細かく対処法を検討していく必要があると思うのです。
さてその中で、理系不足、理科離れの一因として、中学校の理科を取り上げたいのですが、お固い話をくだくだと続けて来たので、今日はもうやめようと思います。続きはまたの機会と致します。
で、脱線します。
この頃、記事の更新が極めて少なくなりました。パソコンが故障してしまって起動しなくなり、スマホからの投稿になったことが第一の原因です。
パソコンについては「使っていないノートがあるのでどうぞ」とくださった奇特な方がいらっしゃるので、ほぼ使えるようになっています。しかし前のパソコンに入れてあったデータが取り出せないことに変わりはないので、まだ落胆が残っています。
暮には、家でスマホを使うことが多いので、家族のこともあり、光回線を入れることにしました。先日、外線工事も終わり、光が使えるようになりました。
パソコンは使えるし、光は入ったし、どんどん更新すれば良いのですが、実はもう一つ困ったことが起こっているのです。昨年末から愛用のコンパクトカメラが行方不明なのです。
これがあれば元気百倍なのですが、どこに潜ってしまったのかなかなか出て来ません。代わりのカメラはあるのですが、中身に未練があるのです。
というわけで珍しく鬱が晴れない momotaro ですが、ま、諦めればいいだけのことですから、遠からず元気が戻ってくるでしょう。
長々つまらぬことを書いてしまいましたねぇ
お付き合いいただいた方には心よりお礼を申し上げます。
これでいいのか高校数学? [教育関連]
最近気になっていることは教育の劣化です。
教育の劣化というと忠君愛国を美徳とする教育理念の復活が一番懸念されます。それはアベ政権のやらんとしている教育の改変で、警戒を要することは間違いありません。
このことの他にも気になっていることがあります。それは、現場の学習指導そのものの劣化です。
前回挙げたさくらんぼ計算については、計算のやり方のヒントとして教える分には意義がないわけではないでしょう。呉々も過度に修得を強制しないことを願います。算数嫌いを産まないために。
さて、今日挙げる例は、高校生の数学です。
具体的にお伝えするために資料も多くなり、小難しくもなりますので、最初に趣旨を述べておきます。
高校生の数学は分野が多過ぎませんか?
一つ一つの分野の基礎理解が難解なうえ、入試の過去問が学習対象に含まれるため、応用問題も難解になっています。
数学が考える科目から広範な知識とテクニックを覚える科目になってしまっています。生徒にしてみると、その分野を味わったり感動したりする暇がなく、次から次へとただ授業や教材やテストに対応しているだけになってしまっているのではないでしょうか。
先生にしてみると、数学の分野を次から次へと洪水のように教えまくり、テストをし、再テストをし、結局は数学の真髄の何たるかも伝えられず、数学離れ、理系離れの一因を、自ら作ってしまっているのではないでしょうか?
以上が趣旨です。
まず分野が多すぎる点です。
一年生で学ぶ数学1の内容は以下のとおりです。
1.数と式
数と集合 - 実数、集合
式 - 式の展開と因数分解、一次不等式
2.二次関数
二次関数とそのグラフ
二次関数の値の変化 - 二次関数の移動、最大・最小、二次方程式・二次不等式
3.図形と計量
三角比 - 鋭角の三角比、鈍角の三角比、正弦定理・余弦定理
図形の計量
4.データの分析
データの散らばり
データの相関
これだけでもかなりの分量です。
正弦定理は
a/sinA=b/sinB=c/sinC=2R
余弦定理は
a二乗=b二乗+c二乗-2bccosA
という三平方の定理を一般化したものです。
これらの学習の他、数学1と並行履修、あるいは数学1を履修した後に履修させ、3項目中2項目以上を選択履修させることとされている数学Aがあります。
数学Aの内容
1.場合の数と確率
① 場合の数(数学A)
集合の要素の個数
和の法則・積の法則
順列:円順列、重複順列などを含む
組合せ
② 確率
確率とその基本的な法則(数学A)
独立な試行と確率(数学A)
条件付き確率(数学C):確率の乗法定理を含む
2.整数の性質(新規)
約数と倍数
ユークリッドの互除法
整数の性質の活用:n進法など
3.図形の性質
三角形の性質:重心,内心,外心など(数学A)
円の性質:四角形が円に内接する条件、方べきの定理,二つの円の位置関係など(数学A)
作図(復活)
空間図形(新規):空間における直線と平面、多面体
3項目中2項目以上とありますが、いわゆる進学校の多くが全部やっているようです。
このうち例えば整数の性質では、こんな問題を解きます。
5x+8y=3 の整数解を全て求めなさい。
風呂にでも入りながらゆっくり考えたいところですがそんな暇はありません。すぐに解き方が教えられ、類題が与えられます。
解き方は、まず解答例を一つ見つけます。
例えば x=-1 y=1
これを問題の式に代入します。
-5+8=3
問題の式からこの式を、辺ベン引きます。
5x+5+8y-8=0 すなわち
5(x+1)+8(y-1)=0という式が、
さらに移項すると
5(x+1)=-8(y-1) という式が得られます。
この両辺が等しくなるということは
x+1は8の倍数だということになります。
そこで kを任意の整数として
x+1=8k と置きます。
これを左辺に代入すると
y-1=-5kとなります。
このことからx=8k-1
y=-5k+1 となり、これが求める答です。
一つしかない二元一次方程式の整数解はこのやり方で求めれば良いわけですが、こうしたことが次から次へと教えられ、類題で修得することが求められます。
問題のパターンに対して解き方の技法を身につけることが数学学習の中身になっています。興味を持ったり本当に身につけたりすれば意味のある学習ですが、次から次へと提示されると、一過性のテスト対策で終ってしまいます。
入試で目新しい問題を出題するとそれが学習項目に付け加えられ、その繰り返しで、何年もかけてこのように学習分野が広がってきたのでしょうが、現場で教えている数学の先生方は、どうお感じなのでしょうか?
空しさを感じながらも現役合格率アップというノルマを達成するために、ただ機械的に技法伝授をしているのではないでしょうか。
教育にはあちこちに問題がありますが、今日は高校数学のテクニック偏重を取り上げてみました。
皆様のご意見もお聞かせいただければ幸いです。
教育の劣化というと忠君愛国を美徳とする教育理念の復活が一番懸念されます。それはアベ政権のやらんとしている教育の改変で、警戒を要することは間違いありません。
このことの他にも気になっていることがあります。それは、現場の学習指導そのものの劣化です。
前回挙げたさくらんぼ計算については、計算のやり方のヒントとして教える分には意義がないわけではないでしょう。呉々も過度に修得を強制しないことを願います。算数嫌いを産まないために。
さて、今日挙げる例は、高校生の数学です。
具体的にお伝えするために資料も多くなり、小難しくもなりますので、最初に趣旨を述べておきます。
高校生の数学は分野が多過ぎませんか?
一つ一つの分野の基礎理解が難解なうえ、入試の過去問が学習対象に含まれるため、応用問題も難解になっています。
数学が考える科目から広範な知識とテクニックを覚える科目になってしまっています。生徒にしてみると、その分野を味わったり感動したりする暇がなく、次から次へとただ授業や教材やテストに対応しているだけになってしまっているのではないでしょうか。
先生にしてみると、数学の分野を次から次へと洪水のように教えまくり、テストをし、再テストをし、結局は数学の真髄の何たるかも伝えられず、数学離れ、理系離れの一因を、自ら作ってしまっているのではないでしょうか?
以上が趣旨です。
まず分野が多すぎる点です。
一年生で学ぶ数学1の内容は以下のとおりです。
1.数と式
数と集合 - 実数、集合
式 - 式の展開と因数分解、一次不等式
2.二次関数
二次関数とそのグラフ
二次関数の値の変化 - 二次関数の移動、最大・最小、二次方程式・二次不等式
3.図形と計量
三角比 - 鋭角の三角比、鈍角の三角比、正弦定理・余弦定理
図形の計量
4.データの分析
データの散らばり
データの相関
これだけでもかなりの分量です。
正弦定理は
a/sinA=b/sinB=c/sinC=2R
余弦定理は
a二乗=b二乗+c二乗-2bccosA
という三平方の定理を一般化したものです。
これらの学習の他、数学1と並行履修、あるいは数学1を履修した後に履修させ、3項目中2項目以上を選択履修させることとされている数学Aがあります。
数学Aの内容
1.場合の数と確率
① 場合の数(数学A)
集合の要素の個数
和の法則・積の法則
順列:円順列、重複順列などを含む
組合せ
② 確率
確率とその基本的な法則(数学A)
独立な試行と確率(数学A)
条件付き確率(数学C):確率の乗法定理を含む
2.整数の性質(新規)
約数と倍数
ユークリッドの互除法
整数の性質の活用:n進法など
3.図形の性質
三角形の性質:重心,内心,外心など(数学A)
円の性質:四角形が円に内接する条件、方べきの定理,二つの円の位置関係など(数学A)
作図(復活)
空間図形(新規):空間における直線と平面、多面体
3項目中2項目以上とありますが、いわゆる進学校の多くが全部やっているようです。
このうち例えば整数の性質では、こんな問題を解きます。
5x+8y=3 の整数解を全て求めなさい。
風呂にでも入りながらゆっくり考えたいところですがそんな暇はありません。すぐに解き方が教えられ、類題が与えられます。
解き方は、まず解答例を一つ見つけます。
例えば x=-1 y=1
これを問題の式に代入します。
-5+8=3
問題の式からこの式を、辺ベン引きます。
5x+5+8y-8=0 すなわち
5(x+1)+8(y-1)=0という式が、
さらに移項すると
5(x+1)=-8(y-1) という式が得られます。
この両辺が等しくなるということは
x+1は8の倍数だということになります。
そこで kを任意の整数として
x+1=8k と置きます。
これを左辺に代入すると
y-1=-5kとなります。
このことからx=8k-1
y=-5k+1 となり、これが求める答です。
一つしかない二元一次方程式の整数解はこのやり方で求めれば良いわけですが、こうしたことが次から次へと教えられ、類題で修得することが求められます。
問題のパターンに対して解き方の技法を身につけることが数学学習の中身になっています。興味を持ったり本当に身につけたりすれば意味のある学習ですが、次から次へと提示されると、一過性のテスト対策で終ってしまいます。
入試で目新しい問題を出題するとそれが学習項目に付け加えられ、その繰り返しで、何年もかけてこのように学習分野が広がってきたのでしょうが、現場で教えている数学の先生方は、どうお感じなのでしょうか?
空しさを感じながらも現役合格率アップというノルマを達成するために、ただ機械的に技法伝授をしているのではないでしょうか。
教育にはあちこちに問題がありますが、今日は高校数学のテクニック偏重を取り上げてみました。
皆様のご意見もお聞かせいただければ幸いです。
算数とさくらんぼ? [教育関連]
「劣化する日本」で教育の劣化が気になっています。
しばらく前から理系離れが囁かれています。学校教育にも原因の一端があるように思います。
教育改革が叫ばれ、高校入試問題などに「新傾向問題」が登場するようになりました。くだくだと状況が説明され、その中で問題が出されてそれに文章で答える、そんな問が目に付くようになりました。文章読解力、文章表現力を重視するようになったということでしょう。
日本人は議論に弱いところがありますから、それを意識しての改革と思われます。
ですから悪いことではありませんが、この傾向が蔓延すると、これでいいのかと思ってしまいます。文章読解力も文章表現力も、社会生活を円滑に進める上で大事な能力ではありますが、これがすべてではありません。
入試問題を作成する側は教育関係の公務員です。公務員に求められる能力はまさにこれでしょう。問題は、社会は公務員を再生産している場ではないということです。
物を考える力は必ずしも言葉とリンクしているものではないということがどんどん置き去りにされているような気がします。
入試問題だけではありません。日々の授業でも言葉が非常に重視されています。
国語は言葉の勉強ですから、言葉を重視するのは当然ですが、言葉を使って表現することにかなり重点が置かれるようになりました。表現力は大事な要素ですが、まずは中身を育てなければなりません。
考える力や感じる力は言葉を駆使する能力よりも先にあり、かつ大きいものです。混沌とした、あるいはもやもやとした中で感じ考えていて、それが適当な言葉に置き換えられて表現されるものです。
言葉の世界が先に脳内に作られ、その世界の中で思考が営まれると仮定することは、脳の働きに言葉の足かせをはめてしまうようなものです。
特に幼少期の脳の働きは、飛躍や空想に満ち、無限で闊達と言えるでしょう。こんな脳の働きを大人の浅知恵で固定してしまってはいけません。日本の将来を小さく萎ませてしまうことにつながります。
例を挙げます。
小学低学年の算数に「さくらんぼ計算」というのがあります。8+5のような繰り上がる計算の答えを求める方法として
「5を2と3にわけ、8と2で10、10と3でこたえは13です。いいですか、やりかたをりかいしましたか」と何度もしつこくやり方を教えます。
引き算もさくらんぼ計算を理解するようくどくどと教え込みます。
例えば 12ー5の場合、
「いちのくらいの2から5はひけないので、12を10と2にわけます。10から5をひいて5、5に2をたして、こたえは7です。このやりかたを《ひく・たすさくせん(作戦)》といいますよ、いいですか、わかりましたか?」
ご丁寧に《ひく・ひく作戦》も何時間もかけて教えてくれます。
同じく12ー5の場合
「いちのくらいの2から5はひけないので、5を2と3にわけます。12からまず2をひいて10、10から3をひいてこたえは7です。いいですか、わかりましたか?」
繰り上がりの足し算も、繰り下がりの引き算も、ドングリでもおはじきでも実際に数えてみればわかることで、なんでそうなるのか、そこに頭を使う必要はないはずなんですが、とにかくやり方を理解することと、それを説明することが重要視され、その力が求められます。
実際の数の取り扱いよりも、やり方とその説明が訓練されます。算数が嫌いになってしまわなければいいのですが、それが気になって仕方がありません。
学問の入り口ですからね、答が違っていなければいいんじゃないでしょうか。
考え方というのは、頭の中で自分で気付くものじゃないでしょうか。他人から教え込まれて覚え込むものではないような気がします。
みなさんはいかがお感じでしょうか?
ご意見ご感想をお待ちします。
しばらく前から理系離れが囁かれています。学校教育にも原因の一端があるように思います。
教育改革が叫ばれ、高校入試問題などに「新傾向問題」が登場するようになりました。くだくだと状況が説明され、その中で問題が出されてそれに文章で答える、そんな問が目に付くようになりました。文章読解力、文章表現力を重視するようになったということでしょう。
日本人は議論に弱いところがありますから、それを意識しての改革と思われます。
ですから悪いことではありませんが、この傾向が蔓延すると、これでいいのかと思ってしまいます。文章読解力も文章表現力も、社会生活を円滑に進める上で大事な能力ではありますが、これがすべてではありません。
入試問題を作成する側は教育関係の公務員です。公務員に求められる能力はまさにこれでしょう。問題は、社会は公務員を再生産している場ではないということです。
物を考える力は必ずしも言葉とリンクしているものではないということがどんどん置き去りにされているような気がします。
入試問題だけではありません。日々の授業でも言葉が非常に重視されています。
国語は言葉の勉強ですから、言葉を重視するのは当然ですが、言葉を使って表現することにかなり重点が置かれるようになりました。表現力は大事な要素ですが、まずは中身を育てなければなりません。
考える力や感じる力は言葉を駆使する能力よりも先にあり、かつ大きいものです。混沌とした、あるいはもやもやとした中で感じ考えていて、それが適当な言葉に置き換えられて表現されるものです。
言葉の世界が先に脳内に作られ、その世界の中で思考が営まれると仮定することは、脳の働きに言葉の足かせをはめてしまうようなものです。
特に幼少期の脳の働きは、飛躍や空想に満ち、無限で闊達と言えるでしょう。こんな脳の働きを大人の浅知恵で固定してしまってはいけません。日本の将来を小さく萎ませてしまうことにつながります。
例を挙げます。
小学低学年の算数に「さくらんぼ計算」というのがあります。8+5のような繰り上がる計算の答えを求める方法として
「5を2と3にわけ、8と2で10、10と3でこたえは13です。いいですか、やりかたをりかいしましたか」と何度もしつこくやり方を教えます。
引き算もさくらんぼ計算を理解するようくどくどと教え込みます。
例えば 12ー5の場合、
「いちのくらいの2から5はひけないので、12を10と2にわけます。10から5をひいて5、5に2をたして、こたえは7です。このやりかたを《ひく・たすさくせん(作戦)》といいますよ、いいですか、わかりましたか?」
ご丁寧に《ひく・ひく作戦》も何時間もかけて教えてくれます。
同じく12ー5の場合
「いちのくらいの2から5はひけないので、5を2と3にわけます。12からまず2をひいて10、10から3をひいてこたえは7です。いいですか、わかりましたか?」
繰り上がりの足し算も、繰り下がりの引き算も、ドングリでもおはじきでも実際に数えてみればわかることで、なんでそうなるのか、そこに頭を使う必要はないはずなんですが、とにかくやり方を理解することと、それを説明することが重要視され、その力が求められます。
実際の数の取り扱いよりも、やり方とその説明が訓練されます。算数が嫌いになってしまわなければいいのですが、それが気になって仕方がありません。
学問の入り口ですからね、答が違っていなければいいんじゃないでしょうか。
考え方というのは、頭の中で自分で気付くものじゃないでしょうか。他人から教え込まれて覚え込むものではないような気がします。
みなさんはいかがお感じでしょうか?
ご意見ご感想をお待ちします。