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今の政治とメディアの在り方は、根本的に間違っていませんか?(その2) [日本考]

 今、国の在り方が、国政の在り方が根本的に間違ってはいませんか? それをまともに取り上げないマスメディアの在り方も根本的に間違ってはいませんか? 日本は今、たいへん重大な局面にあるのではないでしょうか?
 と書いたのが、先月18日でした。(その1)と書いたので、続きが宿題になっていました。なかなか取り組んでいる間がなくて遅くなりました。

 前回は国の在り方が憲法に照らして根本的に間違っていることを述べました。これは、政治家の国民に対する重大な約束違反で、大変重要なことです。
 しかし、憲法が現実に即していないという可能性もあります。憲法を形式的に守ることによって、現実の政治が国民に不利益を与える場合には、憲法に違反する政治でも、「根本的に間違っている」とは言えない場合もありましょう。

 現政権の主張は正にこれです。実態に合わない憲法だから実態に合った政策を先にして、機を見て憲法を変えようというのです。
 この手法、また考えそのものも大変問題があります。そう思うなら、まずその考えを広く国民に訴えて改憲の世論を作るべきです。その上で国会で発議し、改憲の手続きを踏むというのが現憲法のルールです。自らが与党の党首になり、さらに内閣総理大臣になり、その地位を利用して憲法に反する政策を先に実施し、然る後に機を見て憲法を変えようという手法は、法治国家のそれとはとても認められません。

 しかし、憲法があまりにも実態に即していないため、そういう手法を取らざるを得ないという理屈もあり得ます。その場合は、ひとえに理念が大事です。政治理念が現行憲法に著しく勝っている場合です。
 その点を考えて見ましょう。(「理念」とは「根底にある考え方」というほどの意味でここでは使っています)

 日本国憲法に貫かれた理念は、よく言われているとおり、
1、国民主権と象徴天皇制
2、基本的人権の尊重
3、戦争を認めない平和主義
 と言っていいでしょう。順不同です。

 一方アベ総理の理念は、国民より国家です。ご自分の著書『美しい国へ』でそう説かれています。国家があるから国民が活躍できるのだから、まず国家が大事だという趣旨のことを述べています。
 この国家主義に照らすと、今の憲法は不都合なことだらけなのです。

 「国民主権と象徴天皇制」は端から間違いなのです、彼にとっては。国民に主権などないのです。天皇を中心とする、2千年?の伝統を誇る国家が厳然と先にあるのです。国民はそれを支え、さらに繁栄させる臣民なのです。(自民党の改正原案では天皇を元首と位置付けています)

 基本的人権の尊重も、国家における臣民の権利に過ぎないわけですから、「人として生まれた者が当然に持つ権利」などという概念がそもそもないのです。国家の都合でどのようにでも制約できる程度のものなのです。

 戦争を否定する平和主義はあり得ない規定です。なぜ国家の国威の発揚を、自らの憲法が縛らなければならないのでしょうか。こんな規定が存在するのは、戦勝国アメリカによって作られた憲法だからです。戦勝国アメリカが、敗戦国日本を二度と戦争のできる国にしないように仕組んだからに他なりません。
 と、彼らは考えます。「機を見て変えなければいけない!」

 しかし、もちろんそうではないのです。戦争は開戦も継続も国が決めます、国のトップが決めます。しかし、生死をかけて戦うのは、家族を失うのは、過酷な労働を強いられるのは、ひもじい思いをするのは、財産を破壊されるのは・・・みな国民です。その国民が「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「国の交戦権はこれを認めない」としたのです。

 国家の都合で戦争できる国がよいのか、国家の都合では戦争できない国がよいのか、どちらが人類の理性の歩みに則っているでしょうか、未来志向でしょうか?

 戦争・戦(いくさ)は、善くも悪くも人間のドラマです。「夏草や兵どもが夢の跡」と芭蕉翁は詠んでいます。そこには立身出世の夢もあったのです。西欧でも数々の英雄を生んでいます。命を懸けた一世一代のドラマです。しかしそれは過去の話です。

 生存競争は生き物につきものの活動です。しかし、それは自らが生き残り子孫を後世に遺すための死闘です。今や人類が、国や民族を挙げて、他国や他民族と戦争を繰り広げれば、人間ドラマをはるかに超える悲劇が起こるのです。人類そのものが滅びかねないのです。そのことを、第一次世界大戦、第二次世界大戦を通じて、人類が自覚するようになったのです。

 戦後の日本は、まさにその自覚から歩み始めたのです。
 戦争をしない国際社会を創っていこうということが今の人類の課題です。

 ところがアベ総理の考え・胸中には、まず、隣国の脅威が先にあるのです。どうしても力でそれを取り除きたいのです。理念もヘチマもありません。口を開けば「対話のための対話では意味がない」とか「あらゆる方法で圧力を最大限にかけて」とか言って、アメリカの軍事力と一体になって、この「脅威」を除去しようとしているのです。

 圧力を最大限にかけて、北朝鮮が暴発したらどうするのですか?日本に核兵器などを積んだミサイルが打ち込まれたらどうするのですか?
「パック3で撃ち落とす!さらにイージス・アショアを導入する!」
 それで100パーセント迎撃できるのですか?
「それが心配だから敵基地を事前に攻撃する能力も保持する!」
 そんな備えをしたら、先制攻撃のやりっこになりませんか? 不安が高まるばかりじゃありませんか?

 力の行使は予想を越えた悲劇を国民にもたらすのです。その反省に立って、戦後の日本があるのです。排除するのではなく、よりよい共存の道を探るのです。

 国家主義という根本的に違う理念を持った政治家が、今、日本の舵取りをしているのです。放置できますか? 無関心でいられますか?

 以上です。文字ばかりにお付き合いさせてしまって申し訳ありませんでした。<(_ _)>


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