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友よ、戦争をしない世界を創ろう! その8 [『友よ、戦争をしない・・・』広場]

   友からのメール第三弾に応える

 まず、2つの報道番組について。私はどちらも見ていないので、自分自身の感想に基づいてコメントすることはできないけれども、君の感想についてはいくつか疑問を抱かざるを得ないので、率直に異論を申し上げたい。

 君はTBSの番組姿勢を嫌っている。理由は、
①「根拠の説明もなくあの戦争は間違いだったという決めつけ」があったということ、
② 戦争証言者の階層や位置について、恣意的に決め付けることによって、自分達の主張に合うように番組を組み立てているなと感じられたことを挙げている。

 まず②については、テレビ番組に限らず、何か作品を作るときには、伝えたいこと(主張)があって、一生懸命資料を集めてそういう結論にたどり着くようなものを作ろうとするだろうから、これは止むを得ないことではないかと思う。ただしTBSに味方するつもりもないので、「感情論から戦争を論じても結論は明らか」と一蹴されるようでは、ちょっと堀が浅かったのかなあ…と思わないわけでもない。
 ①については、「あの戦争は間違いだった」というのに理由を言わなければならないという主張に、むしろ驚きを感じる。あれは間違っていたとして国は出直したし、義務教育の課程でも、一貫してそういう立場がとられ、教え、教えられてきたと思う。その後、歴史教科書を見直そうという考えを主張する人たちも出てきて、そうした意見を耳にすることもある。しかし、世の常識は「あの戦争は間違いだった」ではないだろうか。だから、TBSはその説明を省いたのだろう。根拠の説明がないことに違和感を覚える君に、正直、驚きと隔たりを感じる。だが、隔たりを知ることは決して悪いことではない。
「あの戦争は間違いだった」と決め付けることに抵抗のある人がいる時代になったのだ、なんだか時代を逆戻りするようだが、どうやらそうらしい。TBSさんもそこから始めるようにしないと着いて来ない視聴者がいるということを認識したほうが良いのかもしれない。

 では、あの戦争はなぜ間違っていたのだろう? 改めて、大急ぎで考えてみよう。
 江戸末期、欧米列強の植民地獲得合戦のさ中に、倒幕に成功した維新政府が世界デビューし、富国強兵を旗印に、国力を急速に伸ばし、日清・日露と勝ち進み、アジアの一大勢力としての地位を築いていく。そういう国策が間違っていたのか正しかったのか、考え方は様々あろうが、結果として、どこかの植民地となることもなく、文化と伝統を維持し伸張してきたのだから、これは間違ってはいなかったとしよう。
 しかし、藩閥の中央政府は、自由民権運動や大正デモクラシー、数々の民主化運動を押さえ込み続けた。やがて、五一五事件、二二六事件などか起こるようになり、枢密院から軍部へと、国政の最高決定機関が移っていくことになるが、いずれも極めて閉鎖的なものであった。

 内政に民主的な進展が見られなかったため、国の進路を選ぶに当たっても多様な発想が採り入れられず、明治初期の国策の延長である大陸への進出を拡大するばかりであった。やがて、勝ち目は乏しく犠牲の多い戦争に国を挙げて突入し、若者を特攻隊に駆り立ててまで戦争を止められなかったのが、あの戦争だ。当然「戦場の殺し合いとか原爆、東京大空襲などの一方的虐殺という悲惨な面」も伴っていた。
 間違っていたのは当然で、どこから悔い改めて二度と同じ間違いをしないようにするか、頭を使うならそこからではないかと思うのだ。

 もっとも、君も「戦後70年で我々が考えないといけないのは、国家の権利の発動たる戦争でいかなる理由でその権利の主張が正当であったのか、戦争という悲惨な結果を招く最終手段をどうして回避できなかったのか、など戦前の日本の思考と行動を検証し何を教訓とするのか、ということであって」と述べておられるから、このあたりの考えに大きな隔たりはないということなのだろう。
 ただ、「国家の権利の発動たる戦争でいかなる理由でその権利の主張が正当であったのか」の部分に、君はより重きを置いているように感じられる。この部分については、「いかなる理由で権利の主張が正当であったのか」という捉え方よりも、「いかなる理由を掲げて戦時体制に国家を導いていったのか」という捉え方を、私はしたい。つまり、不適切な方向に、どんな性格の人たちが、どんな勢力の人たちが誘導していったのか、そこに関心を向けたい。

 君は、しばしば、戦争は正当な権利だと述べている。そのために、正当性を追求したくなるのだろう。それでいて「戦争をどのレベルで語るのかという部分で、戦場の殺し合いとか原爆、東京大空襲などの一方的虐殺という悲惨な面で戦争を見ていけば100人中100人が反対するのは当たり前」とも述べている。これはどう考えても矛盾していて、両論が並び立つことはあり得ないと思う。そんな複雑な思考をめぐらす必要はまったくないし、第一不可能だと思う。
 また君はこうも述べている。「(幼児的、女性的)感情論から戦争を論じても結論は明らかであまり得られるものはないと思うのです。かくいう私も戦争は絶対反対ですよ。」では、それで決まりではないか、というのが私の考えだ。
 それが、幼児的・女性的な感覚や発想でも、いったん戦争が始まれば、幼児も女性も(割合からいっても三分の二を優に超える)巻き込んでしまうのだから、それを軽視して善い理由はないはずだ。また君自身もまったく認めているとおり、否定する理由もないはずだ。

 しかし、男同士の話(もちろん女性の参加を拒むものではありません)を進めるとすれば、権利論がおかしいのではないかと思う。
 君は「一方で政治や経済、外交といった国家運営と戦略というスタンスでは、戦争は国家意思表明の一手段として国際的にも認められているというか、どの国も持っている正当な権利(生存権)ということなので」と記している。
 頭でこう思ってしまうと、「正しいことをやってなんで悪いのだ?欧米先進国がみなやってきたことではないか、負けたから、結果論として悪とされているだけではないか」という論理が浮かんでくる。
 だが、そもそも、「戦争は国家意思表明の一手段として国際的にも認められている」のか、「どの国も持っている正当な権利(生存権)」なのかをよく考えてみようではないか。

 これは、著しく間違った考えではないかと思うのだ。どこの国際会議でこんな意見がまかりとおると言うのだろう。かつて、世界の秩序がまだ築かれていなかったころは、こういう振る舞いをした国もあったであろうし、他国がそのように振る舞う以上は、自国もそうする権利があると主張する国もあったであろう。しかし、今、こんなことを主張する国や人が、本当にいるのかと大いに疑問に思う。
 戦争は、国が侵略されたり、内政や経済活動等が外部の力によって著しく不当に歪められたりしたときに発動することが許される、極めて限定的な、制約の多い行為であって、行使することが正しいという意味の権利とはおよそ違うものと思うのだが、どうだろう?

 君は、この論の延長線上で日本国憲法第9条について触れている。この点も考え方に隔たりを感じるので、もう少し考察したいと思う。だが、既に長くなってしまったので、この辺で一区切りつけることにしたい。


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majyo

読ませていただき すぐに書けませんので
少し時間を置き、また改めて読み直しました。
momotarouさんと考え方は同じに近いのに
どうして このように友を説得できるのか?
そこには、相手を尊重し、なおかつそれを覆すべき知識があるという事が
わかりました。まさに私の全く足らない点です。
私も断定は避けるようにしていますが、何しろ瞬間湯沸かし器みたいなところがあります。
だからこそ、いつも勉強させていただくと言うスタンスになるのです。
今回も、これは良いと思うところをマーカーしたら
黄色でいっぱいになりました。 ありがとうございました。
今回は真面目に(*^。^*)

追伸
今日の私は 抑制のきかないブログとなりました。
これを読んでから書けば違ったかもしれませんが・・・

by majyo (2015-01-23 21:13) 

momotaro

>抑制のきかないブログ!
それも楽しみです。もうひとつコメントを書いてから伺います。

by momotaro (2015-01-23 21:51) 

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