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友よ、戦争をしない世界を創ろう! その5 [『友よ、戦争をしない・・・』広場]

 (すみません、少し長くなってしまいました)

   戦争抑止力について

 戦争抑止力について考えてみよう。私がこの言葉、概念を厄介なものだなあと思ったのは、数年前のこと、核兵器は廃絶するべきか否かというテレビ討論会を見ていた時だった。廃絶するべしという意見の人は、非人道的な大量殺戮兵器だから、どこの国も持つべきではない。持っている国は廃絶に向けた国際協定を結んで、なるべく早くそれを実現すべきだ。概ねそんな意見だった。
 一方、核廃絶に賛成しない人の意見は、核兵器を所有することは他国の攻撃を抑止することになるので、核保有には意味があるとするものだった。
 今、政府が閣議決定した集団的自衛権の行使容認についても、「お互いに助け合える関係になれば、米国と対等なパートナーとして、大国中国を牽制することができるので、集団的自衛権の行使容認は抑止力に成り得る」という意見をときどき耳にする。

 集団的自衛権を行使したところで、アメリカと対等なパートナーになることなどできないことや、アメリカがどこまで本気で日米同盟に配慮するかは甚だ疑問だということなどは既に述べたが、そもそも、こちらが強力な武器を持ったり、強力な仲間と同盟を結んだりすることが、抑止力になるということがあり得ることなのかどうか、そこをじっくり考えてみたい。

 まずは世界の歴史を概観してみよう。
 例えば、第一次大戦は、主にヨーロッパを戦場とする大戦であったが、開戦からさかのぼること32年、1882年にドイツ・オーストリア・イタリアの三国が同盟を結ぶ。それは彼らの平和と安全を守るためだったであろう。これに脅威を感じたフランスは、平和と安全のため、1891年ロシアと同盟を結ぶ。1904年には英仏協商が結ばれる。さらに1907年英露協商も結ばれ、三国協商ができる。いずれも平和と安全と繁栄のために、また万一のときに備えるために結ばれたはずである。
 しかし、結果は、セルビアの一青年がオーストリアの皇太子夫妻を暗殺したことがきっかけとなり、戦火が急速に拡大し、同盟側と協商側の、潜水艦・飛行機・戦車・毒ガスなどの新兵器が投入される総力戦となった。戦火は大きいほど、失われる人命も、破壊される器物も、理不尽な事柄も多くなる。

 第二次大戦を前にした日本はどうだっただろう。世界大恐慌の後、植民地を持つ国々が自国植民地とのつながりを強化していく中、日本は大陸への進出を強める。そして1940年、ドイツ・イタリアと三国同盟を結ぶ。ドイツ・イタリアのヨーロッパでのイニシアチブを承認する代わりに、東アジアや東南アジアでの日本のイニシアチブの承認を目的としていた。当時、東南アジアには、英・仏・蘭の植民地があり、日本は、同地域を日本の生存圏であるとしていた。翌年にはソ連と中立条約を結ぶ。
 こうした同盟や条約は、もちろん日本の平和と安全と繁栄を維持するためにされたことだが、結果は、英・仏・欄の他、態度を決めかねていたアメリカをも決定的に敵に回すことになる。アメリカは石油輸出を制限するなど経済制裁を強化し、英・欄もこれに加わり、既に対戦中の中国を含めた、いわゆるABCD包囲網が築かれることになる。包囲している側は、日本の軍事行動を抑え込むことが目的であり、戦火拡大の抑止力となると思ったであろう。
 冷静に考えれば石油の約8割を頼っていたアメリカの経済制裁が続く以上、国威を発揚することなどほとんど見込めない状況になったわけだが、この包囲網が日本を窮地に追い込み、追い込まれた日本は「今、開戦しなければジリ貧に陥っていく」つまり「窮鼠猫を噛む」の心境で太平洋戦争に突入していく。

 同盟を結ぶことや、戦力を強化することが、どのように戦争を抑止し、平和と安全に貢献するというのだろうか? 傷口を広げただけではないだろうか?

 日本の戦国時代を見ても、これらが抑止力にならないことは容易にわかる、と言えるのではないだろうか?
 駿河の大大名、今川義元が2万の大軍を率いて尾張攻めをする折、織田信長が桶狭間で本陣を急襲し義元の首を獲ってしまう話はあまりにも有名だが、大軍は抑止力にならず、脅威を感じる側は、僅かの隙を狙うことになる例と言えよう。
 戦国時代は数々の同盟が結ばれるが、いくら大きな同盟関係を作っても、抑止力にならないことは、関ヶ原の合戦を見れば明らかだろう。石田光成、徳川家康が、それぞれ味方する武将を募り約8万もの兵力を集めたにもかかわらず、どちらもひるむことなく、合戦を繰り広げることになる。
 大衆が背負うリスクがどんなに大きくなっても、野心家の判断を揺るがすことはなさそうだ。平気で、天下を二分する戦いをやってしまう。それほど野心家の野心は大きい。称えて良いのか、呆れて良いのか、とにもかくにも、一部の人間は極めて勇猛なのだ。
 もう少し真面目に考えてみると、他人の人生や不幸に責任意識が働かない人にとっては、巻き込まれる人の数や不幸の質は、眼中にないのだ。気になるのは、自分と一族の命と権勢だけ。懸けるものは精々それだけなのだ。それさえ懸ければ、あとはどんな大きなことでもできてしまう。これは称えることではないし、勇敢と言えることでもない。恐るべき、そして警戒すべき、一部の人間が有する狂気とも言える心理だ。

 常人の心情を当てにして「抑止力になる」と思ってはいけないと、歴史は教えているものと思う。今や人類は、人類の大半を殺傷し、文明を破壊してしまうほどの兵器を持つようになってしまった。私たちは善き指導者を選ばなければならない。と同時に、負けないための、ということは勝つための戦争準備を、抑止力になる安心材料と信じることも止めなければならないということではないだろうか。
 そう信じることは、振り込め詐欺の言葉を信じて、大金を急いで銀行に振り込みに行くようなものである。戦争の準備をしてこちらのほうが強いのだという見かけを作ることは、決して戦争の抑止にはならない。相手の準備を加速するだけなのだ。
 戦争に負けない備えをすることが無用と言うわけではないが、それはそれとして、他国を当てにせず、自国民の穏やかな生の営みを守るに必要な限度を考えながら、国民合意の下、自力で静かにやることではないだろうか。

 真の抑止力とは何かを、次に考えてみよう! (その6 に続く)

 
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コメント 4

majyo

パソコンオフ前にこちらに立ち寄り
無い頭で必死に読みましたが、なんとなく??理解できました。
それにしてもmomotarouさんは歴史の先生ですか?

同盟を結ぶことは、過去の歴史を見ても抑止にはならず
傷口を広げる結果になったようですね。
戦国時代の話も絡めて
権力者の求めるものは人の不幸などは眼中になく
権勢だけ
言えてます! 
明日、その人をこれで良いのかと皆さんに伝えに行きます
>すみません、少し長くなってしまいました

長く書いてみたいです。すぐに終わっちゃう(-_-;)


by majyo (2015-01-11 23:00) 

momotaro

さっそく nice とコメントをありがとうございます。
> 歴史の先生?
はい、長いこと教えていました。(は嘘です)
> これでよいのかと皆さんに伝えに行きます
たいへんご苦労さまです。実践活動に敬意を表します。
寒いのでご自愛くださいますよう!

by momotaro (2015-01-12 14:15) 

gonntan

アメリカとの対等のパートナー論など空想の産物だと思います。
対等であるためには利益関係ももちろん大事ですが、苦言を言えてこそ
です。シッポ振るだけだといいように使われるだけですね。
国連では未だに敵国条項に縛られているのですから、常任理事国にも
なれていませんし。アメリカのポチはいらないってことです。

by gonntan (2015-01-15 17:15) 

momotaro

gonntan さま
日本国が抱えている問題をひろく共有して、
方向性を見出したいですね。
そうしないと何年たっても変わりませんものね。
by momotaro (2015-01-15 22:01) 

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