中東の歴史とガザ地区の現状(金子由佳さん講演より) [たまには photo news]
金子由佳さんの講演の後半、ガザ地区に入る前に、パレスチナ問題の歴史的、政治的背景を概観しておきます、少し長くなりますが。(Wikipedia参照)
<オスマン帝国時代>
パレスチナは長い間イスラーム国家の支配下に置かれていたが、この地に居住するイスラム教徒とユダヤ教徒・キリスト教徒の三者(人種的には全てアラブ人)は共存関係を維持してきた。しかし19世紀末、ヨーロッパではパレスチナ帰還運動(シオニズム)が起き、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国で離散生活をしていたユダヤ人によるパレスチナ入植がはじまった。当時のパレスチナを支配していたのはオスマン帝国であり、こうした入植を規制することはなかった。ドレフュス事件などの影響もあり、パレスチナに入植するユダヤ人の数は徐々に増え始めた。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、中央同盟国側に立って参戦したオスマン帝国に対し、協商国側のイギリスが侵攻を開始した。
<イギリス委任統治時代>
オスマン帝国が第一次世界大戦に敗れると、帝国が支配していたパレスチナは結局イギリスの委任統治領として植民地化された(イギリス委任統治領パレスチナ)。イギリスの委任統治領となった後も、ユダヤ人の移民は増加し続けた。
入植ユダヤ人が増加するに従い、アラブ人との摩擦が強まっていった。戦間期のパレスチナではユダヤ人・アラブ人・英軍がたびたび衝突する事態となっていた。こうした中、1937年にはイギリス王立調査団がパレスチナをアラブとユダヤに分割して独立させるパレスチナ分割案を提案した。この案ではユダヤ国家が北部のハイファやテルアビブを中心としたパレスチナの約20%の土地を与え、中部・南部を中心とした残りの80%はアラブ側に与えられることとなっていた。また、エルサレムとベツレヘムを中心とし海岸部までの細い回廊を含めたパレスチナ中部の小さな地域は委任統治領となっていた。この案をユダヤ側は受け入れたがアラブ側は拒否し、パレスチナの独立は第二次世界大戦後まで持ち越しとなった。
第二次世界大戦期にはナチス・ドイツの反ユダヤ政策により、シオニズム運動はより盛んになった。戦中・戦後に発生したユダヤ人難民のうち相当数が「約束の地」パレスチナを目指したため、ユダヤ人の入植は急増しアラブ人との摩擦はますます強くなった。1947年2月7日、両派による武力衝突が頻発する中、事態収拾を困難と見たイギリスはパレスチナの委任統治を終了させる意向を表明した。
<国連、パレスチナ分割決議採択、イスラエル独立宣言>
イギリスは1947年4月2日、国際連合にパレスチナ問題を提訴した。国連は1947年11月に、パレスチナを分割しアラブとユダヤの二国家を建設する決議(パレスチナ分割決議)を採択し、イギリスによる委任統治が終了することが決定した。
この分割案は1937年のイギリス王立調査団案に比べはるかにユダヤ人に有利になっており、ユダヤ人国家はパレスチナの56%、アラブ人国家はパレスチナの43%を占めることとなっていた。ユダヤ人国家はハイファやテルアビブなどの大都市およびその間の肥沃な平野を手に入れたが、それ以外の土地の大部分はネゲヴの砂漠であった。ユダヤ人側の領土の方が大きいのは、第二次世界大戦後も続々と流入の続くユダヤ人難民を収容する意図も込められていた。また、ユダヤ国家とされた地域においてはユダヤ人が55%、アラブ人が45%とユダヤ人がやや優位な状態となっていたが、アラブ国家とされた地域にはユダヤ人はほとんど存在せず、ユダヤ人1%に対しアラブ人人口は99%を占めていた。また、エルサレムとベツレヘムを中心とする国土中央部のわずかな地域(パレスチナ総面積の1%)は国連管理地区として中立地区となる予定であった。ユダヤ人側の大部分はこの決議を歓迎し受け入れを表明したものの、アラブ人側はこの国連決議を不合理なものとして反発し、ほとんどの組織が受け入れ反対を表明した。
この決議案はそれまでもくすぶり続けていた両民族の対立をさらに決定的なものとし、これ以降ユダヤ人とアラブ人双方の間で、武力衝突(暴動・テロ・民兵同士の戦闘)が頻発することとなった。イギリスの委任統治領政府はもはや無力なものとなり果て、パレスチナは事実上の内戦状態となっていった。
1948年5月14日、イギリスによるパレスチナ統治終了の日に、ユダヤ人はイスラエル建国を宣言した(イスラエル独立宣言)。しかし翌日には、分割に反対する周辺アラブ諸国がパレスチナへ侵攻し、第一次中東戦争が勃発・多くのパレスチナ難民も発生した。
<第一次中東戦争>
1948年5月14日、イスラエルが独立を宣言すると、パレスチナの内戦はすぐさま国家間の戦争と化した。翌5月15日にはイスラエル独立に反対する周辺アラブ諸国(エジプト、サウジアラビア、イラク、トランスヨルダン、シリア、レバノン)がパレスチナへ進軍し、パレスチナ人側に立ってイスラエルと戦闘を始めた。アラブ側の兵力は約15万以上、イスラエル側の兵力は3万弱といわれている。数で優勢なアラブ連合軍はイスラエルを包囲する形で進軍したが、各国間の不信感から連携がうまくいかず兵士の士気も低かった。緒戦はその物的優位によりアラブ連合軍が善戦する。しかし、二度の休戦期間の間に、イスラエル軍は部隊を強化することに成功した。アラブ諸国の足並みの乱れもあり、ヨルダン方面を除き、戦況は次第にイスラエル優位になった。そして、イスラエル優位のまま1949年6月、双方が国連の停戦勧告を受け入れた。
この戦争の結果は双方に不満を残すものだった。イスラエル側は念願の独立国家の建国に成功し、国連分割決議よりもはるかに広い領土を確保したものの、肝心のユダヤ教の聖地である嘆きの壁を含むエルサレム旧市街はイスラム教国であるトランスヨルダンの手にわたり、ユダヤ教徒は聖地への出入りが不可能になってしまった。
アラブ側もイスラエルの建国を許し、人口比に比べわずかな領土しか確保することができなかった。パレスチナにおいてアラブ側に残された土地は、エルサレム旧市街(東エルサレム)を含むヨルダン川西岸がトランスヨルダンに、地中海沿岸のガザ地区がエジプトに、それぞれ分割され、イスラエルに対する敵意を募らせた。
終戦後も両勢力の敵対は全く収まらず、以後21世紀に入っても続く対立の原型はこの時期に形作られた。また、この戦争によって主にイスラム系のパレスチナ人が多く国を追われ、大量のパレスチナ難民となって周辺各国へと流出した。
<第二次中東戦争>
1956年にエジプトで、イギリス・アメリカによるアスワン・ハイ・ダムの建設が中止になったため、当時のエジプト大統領ナセルは7月、対抗手段としてスエズ運河の国有化を発表した。スエズ運河運営会社の株主でもあり、石油を含む貿易ルートとして、スエズ運河を利用するイギリス・フランス両国はこれに反発した。そのため、10月、イスラエルを支援してエジプトとの戦争を煽動し、自らは仲裁の名目で介入した。
戦争は10月29日、イスラエルによるシナイ半島侵攻により開始された。空挺部隊・戦車部隊を活用した攻撃により、エジプト軍は総崩れとなり、シナイ半島の大半は、イスラエル軍が占領することとなった。イスラエル軍が進撃中の、11月5日イギリス・フランスも軍事介入し、スエズ運河地帯に上陸した。しかし、この攻撃にはエジプトを支援してきたソ連はもちろん、イギリス・フランスが支持を期待していたアメリカも含めて国際的な非難が沸き起こり、11月6日に国連の停戦決議を受け入れることとなった。これがPKOの起源である。12月になり、国連の調停により、英仏両国はエジプトによるスエズ運河国有化を受け入れた。エジプトは1957年1月にイギリスとフランスの銀行を国有化し、3月にスエズ運河の運行を再開した。
「スエズ動乱」「スエズ戦争」とも呼ばれるこの戦争においては、イスラエルは第一次中東戦争とは違い、非常に練度が高く優れた装備の軍によって純軍事的にはエジプトを圧倒したが、アメリカやソヴィエトなどの介入により外交的に敗北し、軍事力の誇示以外には何も得るところなく終わった。エジプトは純軍事的にはなすところなく敗北したものの、外交によって戦争目的であるスエズ運河国有化を果たすことに成功し、アラブ世界における威信を大幅に上げ、ナセルはアラブ世界の盟主としての地位を獲得した。この戦争によってもっとも損害を受けたのはイギリスであり、アメリカ・ソヴィエトの両大国の介入になすところなく撤退を余儀なくされたことは世界に盟主の交代を強く印象付け、イギリスの凋落は決定的なものとなった。以後、イギリスは中東地域において能動的な役割をほとんど果たさなくなり、1970年代初頭には残されていたペルシャ湾岸・オマーン・アデン・ハドラマウトの各保護領から撤退してこの地域から完全に手を引くこととなった。
<第三次中東戦争>
ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まりつつあった1967年6月5日、イスラエルはエジプト、シリア、イラク、ヨルダンの空軍基地に先制攻撃を行なった。第三次中東戦争の始まりである。緒戦でアラブ側は410機の軍用航空機を破壊された。制空権を失ったアラブ諸国は地上戦でも敗北し、イスラエルはヨルダンのヨルダン川西岸地区・エジプト(当時アラブ連合共和国)のガザ地区とシナイ半島・シリアのゴラン高原を迅速に占領し、6月7日にはユダヤ教の聖地を含む東エルサレムを占領。開戦わずか4日後の6月8日にイスラエルとヨルダンおよびエジプトの停戦が成立し、シリアとも6月10日に停戦。なお、6日で勝敗が決したため「六日戦争」とも呼ばれる。
この戦争においてはイスラエルがその高い軍事能力を存分に発揮し、周辺各国全てを相手取って完勝した。イスラエルは旧パレスチナ地区のすべてを支配下に置いたばかりか、さらにシナイ半島とゴラン高原をも入手し、戦争前と比較し領土を約4倍以上に拡大した。しかし国連によってこの領土拡大は承認されず、国際的に公認されたイスラエルの領土は建国当初の領域のみとされた。日本の地図において、イスラエルの支配下にあるヨルダン川西岸やゴラン高原がそれぞれヨルダンおよびシリアの領土として表示されているのはこのためである。また、嘆きの壁を含むエルサレム旧市街(東エルサレム)の支配権もイスラエルが獲得し、エルサレムはすべてイスラエル領となったが、この併合も国際社会からは認められず、後の論争の火種となった。
この劇的な勝利により、イスラエルは中東紛争における圧倒的な優勢を獲得した。この優勢は現代にいたるまで揺らいでいない。
アラブ側においては全くの完敗であり、第一次中東戦争において確保していたパレスチナの残存部分をもイスラエルに占領され、パレスチナからアラブ側の領土は消滅した。ナセルの威信はこの戦争によって決定的に低下し、もともと足並みのそろっていないアラブ側の混乱がさらに顕著となった。第二次中東戦争においてエジプトが確保したスエズ運河も、運河の東岸はイスラエルが占領したため最前線となり、運河は通航不能となった。このためヨーロッパ・アメリカ東海岸からアジアへと向かう船はすべて喜望峰回りを余儀なくされることとなり、世界経済に多大な影響を与えた。スエズ運河は、第四次中東戦争が終結し、1975年に再開されるまでの8年間閉鎖されたままだった。
アラブ側は、イスラエルの存在を認めず、敵対を続けるという一点においては一致しており、戦争終結後まもない8月末から9月にかけて行われたアラブ首脳会議において、アラブ連盟はイスラエルに対し「和平せず、交渉せず、承認せず」という原則を打ち出した。また、それまでアラブ側国家の支配のもとにあったヨルダン川西岸やガザ地区などのパレスチナ残存地域やゴラン高原、シナイ半島がイスラエルの手に落ちたことで、第一次中東戦争を上回る多数のパレスチナ難民が発生した。
<消耗戦争>
この後、イスラエルとエジプトは完全な停戦状態になったわけではなく、「消耗戦争」と呼ばれる散発的な砲爆撃を行う状態が、1968年9月から1970年8月まで続いた。この「消耗戦争」を、それまでの戦争と区別して「第四次中東戦争」と呼ぶこともある。この場合は、下記の第四次が第五次ということになる。消耗戦争はエジプト側がスエズ運河の西岸からイスラエル占領地側の軍に向けて砲撃を行い、イスラエル側は優勢な空軍力でエジプトに侵入し爆撃を行うといった形で行われた。
<第四次中東戦争>
1973年10月6日、エジプトが前戦争での失地回復のため、シリアとともにイスラエルに先制攻撃をかけ、第四次中東戦争が開始された。ユダヤ教徒にとって重要な贖罪日(ヨム・キプール)の期間であり、イスラエルの休日であった。イスラエルは軍事攻撃を予想していなかった為に対応が遅れたといわれている。一方エジプト、シリア連合軍は周到に準備をしており、第三次中東戦争で制空権を失った為に早期敗北を招いた反省から、地対空ミサイルを揃え徹底した防空体制で地上軍を支援する作戦をとった。この「ミサイルの傘作戦」は成功し、イスラエル空軍の反撃を退けイスラエル機甲師団に大打撃を与えることに成功した。緒戦でシナイ半島のイスラエル軍は大打撃を受けたことになる。そして、エジプト軍はスエズ運河を渡河し、その東岸を確保することに成功した。
初戦において後れを取ったイスラエルであるが、反撃にかかるのは迅速だった。ヨム・キプールは安息日であり、予備役は自宅で待機しているものがほとんどだったため、素早い召集が可能だったのである。10月9日より、イスラエル軍による反撃が開始され、まずシリアとの前線である北部戦線に集中的に兵力を投入する戦略がとられた。大量の増援を受けたイスラエル軍は、シリア軍およびモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を破り、ゴラン高原を再占領することに成功した。シナイ半島方面においても、10月15日より反撃が開始され、翌16日にはスエズ運河を逆渡河、西岸の一部を確保した。ここにいたり、国際社会による調停が実り、10月23日に停戦となった。
この戦争においては、両者ともに痛み分けともいえる結果となった。イスラエルは最終的には盛り返し、軍事的には一応の勝利を得たものの、初戦における大敗北はそれまでのイスラエル軍無敗の伝説を覆すものであり、イスラエルの軍事的威信は大きく損なわれた。エジプトは純軍事的には最終的に敗北したものの、初戦において大勝利したことで軍事的威信を回復し、エジプト大統領アンワル・サダトの名声は非常に高まった。さらに緒戦においてではあるが、エジプトが勝利し、イスラエルが敗北したことにより、両国首脳の認識に変化が生じ、エジプトはイスラエルを交渉のテーブルにつかせることに成功。後のキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に結びついた。
なお、アラブ各国はこの戦いを有利に展開するため、イスラエルがスエズ運河を逆渡河し優勢になりはじめた10月16日、石油輸出国機構の中東6カ国が原油価格を70%引き上げ、翌10月17日にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエルを援助するアメリカとオランダへの石油の禁輸を決定、さらに非友好的な西側諸国への石油供給の段階的削減を決定。石油戦略と呼ばれるこの戦略によって世界の石油の安定供給が脅かされ、原油価格は急騰して世界に経済混乱を引き起こした。第一次オイルショックである。これによって、もともと1970年代に入り原油価格への影響力を強めていた産油国はオイルメジャーから価格決定権を奪取し、価格カルテル化したOPECが原油価格に決定的な影響を与えるようになった。また、これによってそれまでよりはるかに多額の資金が産油国に流入するようになり、産油国の経済開発が進展することとなった。
<アラブの連合>
4度の戦争を経過するに当たり、中東各国はまずアラブ連盟を結成し、イスラエルへの対抗姿勢を示すことでは一致した。また、イスラエルや西側に対抗するために、ソビエト連邦との関係を強め、あるいはエジプトのナセル大統領の提唱した汎アラブ主義に基づいて各国が合併や連合したが、産油国と非産油国の思惑は常にすれ違い、こちらはいずれも失敗した。
<中東和平への動き>
第四次中東戦争以後、イスラエルとアラブ国家との本格的な武力衝突は起きていない。いくつかの理由が挙げられるが、第一に、ナセルの後を引き継いだサダト・エジプト大統領は、反イスラエル路線を転換し、1978年3月に単独でキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に調印したためである。かつてアラブの盟主を自認し、中東戦争を先頭で進めたエジプトの離脱は、アラブの連携を崩した。エジプトはアラブ連盟の盟主であったが、1979年にはこの和平を理由として連盟から追放されてしまい、1990年まで復帰を許されなかった。サダトはイスラエル首相のメナヘム・ベギンとともに1978年度のノーベル平和賞を受賞したが、1981年10月、イスラム復興主義者により暗殺された。しかし親イスラエル路線は後継者ムバーラクが2011年のエジプト革命で政権を失うまで継続された。
1991年に中東和平会議が開かれ、1992年6月のイスラエルの総選挙で和平派の労働党連合が圧勝。1993年、アメリカ合衆国大統領に中東和平を重視した民主党のビル・クリントンが就任すると、前年にイスラエル首相となったイツハク・ラビンとともに、アラブ各国への根回しをしながら和平交渉に乗り出した。9月、PLOとイスラエルが相互承認した上でパレスチナの暫定自治協定に調印した。これによってヨルダン川西岸とガザ地区はパレスチナ・アラブ人の自治を承認した。協定は1994年5月に発効してパレスチナ自治政府が設立され、アラファトが初代大統領に就任したが、ラビンの和平路線は国内の極右勢力から憎まれた。また、イスラエルの存在を認めたPLOに対し、パレスチナの過激派からも不満が出た。
1994年7月、ラビンはパレスチナの国際法上の領主ヨルダンとの戦争状態終結を宣言し、10月に平和条約を結び、その直前にラビンはアラファトとともにノーベル平和賞を受賞した。
1995年3月にはゴラン高原をめぐってシリアと直接交渉を開始、イスラエル軍が段階的に撤退することとなり、ゴラン高原は国連の監視下に入った。9月、イスラエルとPLOはパレスチナの自治拡大協定に調印し、パレスチナのアラブ国家建設への道が開かれた。
<遠のく和平への道>
1995年11月、ラビンは極右のユダヤ人青年に射殺された。また1996年2月から3月にかけ、パレスチナ過激派がイスラエルでラビン暗殺に抗議する爆弾テロを引き起こし、和平はついに暗礁に乗り上げた。PLOは4月に民族憲章からイスラエル破壊条項を削除し、和平維持を望んだ。
9月、エルサレムでアラブ系住民が暴動を起こし、イスラエルは軍をもってこれを鎮圧した。1997年、イスラエルはパレスチナのヘブロンから撤退する一方、アラブ人の住む東エルサレムにユダヤ人用集合住宅を強行着工、国連は2度の緊急総会を開いて入植禁止を決議するに至った。ところが、イスラエルで爆弾テロが起こり、アメリカは和平継続を求めて中東を歴訪した。アラブ各国は中東和平交渉の再開に賛成し、一応の安定を見た。
1999年、PLOはパレスチナ独立宣言を延期。イスラエルはシリアと和平交渉に就いた。2000年にパレスチナ村の完全自治移行を決定した。しかし、聖地エルサレムの帰属をめぐって交渉は決裂した。イスラエルの右派政党党首アリエル・シャロンはエルサレムの「神殿の丘」を訪れ、パレスチナ人の感情を逆撫でする行動を取った。これを機に、パレスチナ全域で反イスラエル暴動が起こり(第2次インティファーダ)、中東和平はここに崩壊した。アラファトは親族の汚職疑惑などでPLOやパレスチナ自治政府における求心力を失っており、テロを抑止する事が出来なかった。
2001年3月、イスラエル首相に就任した右派シャロンは、PLOや武装勢力ハマースを自爆テロを引き起こし国内を混乱させている勢力であるとみなし、その幹部殺害を始めた。また分離フェンスを設置しパレスチナ側から非難を招いた。その結果パレスチナ側は自爆テロをエスカレートさせた。2002年にサウジアラビアのアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ国王はイスラエルの占領地撤退と引き換えに全アラブ諸国は国交正常化するという前代未聞のアラブ和平イニシアティブを提唱してアラブ連盟に全会一致で可決させ、イスラム諸国会議機構全加盟国の支持も受け、当時のイスラエル国防大臣だったベンヤミン・ベン・エリエゼルも「シオニズム運動史上最大の成果」と絶賛した。2004年にアラファトが死去、後を継いだマフムード・アッバースPLO議長がパレスチナ自治政府の2代目大統領に就任、「ヌアクショットからインドネシアまで全アラブ・イスラム諸国がイスラエルと和平を結び、国交を正常化する」としてアラブ和平イニシアチブの受け入れの要求をイスラエルの各主要新聞で大々的に宣伝した。一方、ガザ政府のハマースはイスラエルを承認することになることから、アラブ和平イニシアティブに否定的であった。
2006年7月、イスラエルのレバノン侵攻によりアラブ諸国がイスラエルを非難。
2008年12月27日、ガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織「ハマース」とイスラエルとの間に戦争が勃発(ガザ紛争)。2009年1月18日まで戦争は続いた。アラブ諸国はこの戦争を「ガザの虐殺」と呼び、イスラエルに対する憎悪が高まっている。ハマースとの停戦条約は締結されておらず、また、イスラエルによるガザ地区の封鎖継続は、2010年現在に至るまで人道危機を引き起している。
2011年9月にはアッバース大統領がパレスチナ自治政府の国連への加盟申請を表明、2012年11月29日には国連総会においてパレスチナを「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする決議案が賛成多数で承認された。これに反発してイスラエル国内ではパレスチナ排除を主張する極右勢力が伸長し、緊張が高まっている。年末には長期化しているシリア騒乱における戦闘の砲弾がイスラエル領内に着弾、これにイスラエル軍が警告射撃を行う事態も発生している。
2013年、エジプトのムルシー政権が軍部のクーデターにより倒されると、再び親イスラエル路線に回帰した同国にてガザへの密輸規制が強化され、結果弱体化したハマースが主流派ファタハに接近、パレスチナ挙国一致政権が発足した。これに反発したイスラエルが翌年に再度ガザに侵攻した。
(Wikipediaさん、ありがとうございました。若干編集させていただきました)
こんな歴史的、政治的背景を持つガザの最新情報を金子由佳さんが伝えてくれました。それを私がまた伝えします、当人の許可を得て、投影画面の写真で。
仮説住宅の劣悪な設備
子どもの描く絵
日本の震災に同情を寄せる子どもたち
お別れ映像がピンボケしちゃいました。
秩父にお住まいのユダヤ人、ダニーさんがお見えになっていて登壇。
「戦争は絶対しちゃダメ、良い人・普通の人を悪い人に、鬼に変えちゃうから。戦争は絶対にしちゃいけません」
ナチスの迫害に遭ったユダヤ人が、パレスチナでは加害者になっています。故国を持たないでいじめられていた民が、念願の自分の国を持とうと必死になって、先住民を迫害しています。一度暴力を用いると、憎しみが憎しみを産み、残虐行為の連鎖が始まります。罪のない子供が可哀想です。
民族差別はやめて、平等に、互いを尊重して暮らすしかないでしょう。
「他人の不幸は痛くも痒くもない」ではなくて、不幸な人の身にもなって、人の不幸をできるだけ減らす、そんな価値観を共有しようではありませんか。
みなさんのご感想はいかがですか?
金子由佳さんの、虎穴に入る勇気と、重いメッセージを背負ってなおへこたれない足腰に、改めて敬意を表したいと思います。
<オスマン帝国時代>
パレスチナは長い間イスラーム国家の支配下に置かれていたが、この地に居住するイスラム教徒とユダヤ教徒・キリスト教徒の三者(人種的には全てアラブ人)は共存関係を維持してきた。しかし19世紀末、ヨーロッパではパレスチナ帰還運動(シオニズム)が起き、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国で離散生活をしていたユダヤ人によるパレスチナ入植がはじまった。当時のパレスチナを支配していたのはオスマン帝国であり、こうした入植を規制することはなかった。ドレフュス事件などの影響もあり、パレスチナに入植するユダヤ人の数は徐々に増え始めた。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、中央同盟国側に立って参戦したオスマン帝国に対し、協商国側のイギリスが侵攻を開始した。
<イギリス委任統治時代>
オスマン帝国が第一次世界大戦に敗れると、帝国が支配していたパレスチナは結局イギリスの委任統治領として植民地化された(イギリス委任統治領パレスチナ)。イギリスの委任統治領となった後も、ユダヤ人の移民は増加し続けた。
入植ユダヤ人が増加するに従い、アラブ人との摩擦が強まっていった。戦間期のパレスチナではユダヤ人・アラブ人・英軍がたびたび衝突する事態となっていた。こうした中、1937年にはイギリス王立調査団がパレスチナをアラブとユダヤに分割して独立させるパレスチナ分割案を提案した。この案ではユダヤ国家が北部のハイファやテルアビブを中心としたパレスチナの約20%の土地を与え、中部・南部を中心とした残りの80%はアラブ側に与えられることとなっていた。また、エルサレムとベツレヘムを中心とし海岸部までの細い回廊を含めたパレスチナ中部の小さな地域は委任統治領となっていた。この案をユダヤ側は受け入れたがアラブ側は拒否し、パレスチナの独立は第二次世界大戦後まで持ち越しとなった。
第二次世界大戦期にはナチス・ドイツの反ユダヤ政策により、シオニズム運動はより盛んになった。戦中・戦後に発生したユダヤ人難民のうち相当数が「約束の地」パレスチナを目指したため、ユダヤ人の入植は急増しアラブ人との摩擦はますます強くなった。1947年2月7日、両派による武力衝突が頻発する中、事態収拾を困難と見たイギリスはパレスチナの委任統治を終了させる意向を表明した。
<国連、パレスチナ分割決議採択、イスラエル独立宣言>
イギリスは1947年4月2日、国際連合にパレスチナ問題を提訴した。国連は1947年11月に、パレスチナを分割しアラブとユダヤの二国家を建設する決議(パレスチナ分割決議)を採択し、イギリスによる委任統治が終了することが決定した。
この分割案は1937年のイギリス王立調査団案に比べはるかにユダヤ人に有利になっており、ユダヤ人国家はパレスチナの56%、アラブ人国家はパレスチナの43%を占めることとなっていた。ユダヤ人国家はハイファやテルアビブなどの大都市およびその間の肥沃な平野を手に入れたが、それ以外の土地の大部分はネゲヴの砂漠であった。ユダヤ人側の領土の方が大きいのは、第二次世界大戦後も続々と流入の続くユダヤ人難民を収容する意図も込められていた。また、ユダヤ国家とされた地域においてはユダヤ人が55%、アラブ人が45%とユダヤ人がやや優位な状態となっていたが、アラブ国家とされた地域にはユダヤ人はほとんど存在せず、ユダヤ人1%に対しアラブ人人口は99%を占めていた。また、エルサレムとベツレヘムを中心とする国土中央部のわずかな地域(パレスチナ総面積の1%)は国連管理地区として中立地区となる予定であった。ユダヤ人側の大部分はこの決議を歓迎し受け入れを表明したものの、アラブ人側はこの国連決議を不合理なものとして反発し、ほとんどの組織が受け入れ反対を表明した。
この決議案はそれまでもくすぶり続けていた両民族の対立をさらに決定的なものとし、これ以降ユダヤ人とアラブ人双方の間で、武力衝突(暴動・テロ・民兵同士の戦闘)が頻発することとなった。イギリスの委任統治領政府はもはや無力なものとなり果て、パレスチナは事実上の内戦状態となっていった。
1948年5月14日、イギリスによるパレスチナ統治終了の日に、ユダヤ人はイスラエル建国を宣言した(イスラエル独立宣言)。しかし翌日には、分割に反対する周辺アラブ諸国がパレスチナへ侵攻し、第一次中東戦争が勃発・多くのパレスチナ難民も発生した。
<第一次中東戦争>
1948年5月14日、イスラエルが独立を宣言すると、パレスチナの内戦はすぐさま国家間の戦争と化した。翌5月15日にはイスラエル独立に反対する周辺アラブ諸国(エジプト、サウジアラビア、イラク、トランスヨルダン、シリア、レバノン)がパレスチナへ進軍し、パレスチナ人側に立ってイスラエルと戦闘を始めた。アラブ側の兵力は約15万以上、イスラエル側の兵力は3万弱といわれている。数で優勢なアラブ連合軍はイスラエルを包囲する形で進軍したが、各国間の不信感から連携がうまくいかず兵士の士気も低かった。緒戦はその物的優位によりアラブ連合軍が善戦する。しかし、二度の休戦期間の間に、イスラエル軍は部隊を強化することに成功した。アラブ諸国の足並みの乱れもあり、ヨルダン方面を除き、戦況は次第にイスラエル優位になった。そして、イスラエル優位のまま1949年6月、双方が国連の停戦勧告を受け入れた。
この戦争の結果は双方に不満を残すものだった。イスラエル側は念願の独立国家の建国に成功し、国連分割決議よりもはるかに広い領土を確保したものの、肝心のユダヤ教の聖地である嘆きの壁を含むエルサレム旧市街はイスラム教国であるトランスヨルダンの手にわたり、ユダヤ教徒は聖地への出入りが不可能になってしまった。
アラブ側もイスラエルの建国を許し、人口比に比べわずかな領土しか確保することができなかった。パレスチナにおいてアラブ側に残された土地は、エルサレム旧市街(東エルサレム)を含むヨルダン川西岸がトランスヨルダンに、地中海沿岸のガザ地区がエジプトに、それぞれ分割され、イスラエルに対する敵意を募らせた。
終戦後も両勢力の敵対は全く収まらず、以後21世紀に入っても続く対立の原型はこの時期に形作られた。また、この戦争によって主にイスラム系のパレスチナ人が多く国を追われ、大量のパレスチナ難民となって周辺各国へと流出した。
<第二次中東戦争>
1956年にエジプトで、イギリス・アメリカによるアスワン・ハイ・ダムの建設が中止になったため、当時のエジプト大統領ナセルは7月、対抗手段としてスエズ運河の国有化を発表した。スエズ運河運営会社の株主でもあり、石油を含む貿易ルートとして、スエズ運河を利用するイギリス・フランス両国はこれに反発した。そのため、10月、イスラエルを支援してエジプトとの戦争を煽動し、自らは仲裁の名目で介入した。
戦争は10月29日、イスラエルによるシナイ半島侵攻により開始された。空挺部隊・戦車部隊を活用した攻撃により、エジプト軍は総崩れとなり、シナイ半島の大半は、イスラエル軍が占領することとなった。イスラエル軍が進撃中の、11月5日イギリス・フランスも軍事介入し、スエズ運河地帯に上陸した。しかし、この攻撃にはエジプトを支援してきたソ連はもちろん、イギリス・フランスが支持を期待していたアメリカも含めて国際的な非難が沸き起こり、11月6日に国連の停戦決議を受け入れることとなった。これがPKOの起源である。12月になり、国連の調停により、英仏両国はエジプトによるスエズ運河国有化を受け入れた。エジプトは1957年1月にイギリスとフランスの銀行を国有化し、3月にスエズ運河の運行を再開した。
「スエズ動乱」「スエズ戦争」とも呼ばれるこの戦争においては、イスラエルは第一次中東戦争とは違い、非常に練度が高く優れた装備の軍によって純軍事的にはエジプトを圧倒したが、アメリカやソヴィエトなどの介入により外交的に敗北し、軍事力の誇示以外には何も得るところなく終わった。エジプトは純軍事的にはなすところなく敗北したものの、外交によって戦争目的であるスエズ運河国有化を果たすことに成功し、アラブ世界における威信を大幅に上げ、ナセルはアラブ世界の盟主としての地位を獲得した。この戦争によってもっとも損害を受けたのはイギリスであり、アメリカ・ソヴィエトの両大国の介入になすところなく撤退を余儀なくされたことは世界に盟主の交代を強く印象付け、イギリスの凋落は決定的なものとなった。以後、イギリスは中東地域において能動的な役割をほとんど果たさなくなり、1970年代初頭には残されていたペルシャ湾岸・オマーン・アデン・ハドラマウトの各保護領から撤退してこの地域から完全に手を引くこととなった。
<第三次中東戦争>
ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まりつつあった1967年6月5日、イスラエルはエジプト、シリア、イラク、ヨルダンの空軍基地に先制攻撃を行なった。第三次中東戦争の始まりである。緒戦でアラブ側は410機の軍用航空機を破壊された。制空権を失ったアラブ諸国は地上戦でも敗北し、イスラエルはヨルダンのヨルダン川西岸地区・エジプト(当時アラブ連合共和国)のガザ地区とシナイ半島・シリアのゴラン高原を迅速に占領し、6月7日にはユダヤ教の聖地を含む東エルサレムを占領。開戦わずか4日後の6月8日にイスラエルとヨルダンおよびエジプトの停戦が成立し、シリアとも6月10日に停戦。なお、6日で勝敗が決したため「六日戦争」とも呼ばれる。
この戦争においてはイスラエルがその高い軍事能力を存分に発揮し、周辺各国全てを相手取って完勝した。イスラエルは旧パレスチナ地区のすべてを支配下に置いたばかりか、さらにシナイ半島とゴラン高原をも入手し、戦争前と比較し領土を約4倍以上に拡大した。しかし国連によってこの領土拡大は承認されず、国際的に公認されたイスラエルの領土は建国当初の領域のみとされた。日本の地図において、イスラエルの支配下にあるヨルダン川西岸やゴラン高原がそれぞれヨルダンおよびシリアの領土として表示されているのはこのためである。また、嘆きの壁を含むエルサレム旧市街(東エルサレム)の支配権もイスラエルが獲得し、エルサレムはすべてイスラエル領となったが、この併合も国際社会からは認められず、後の論争の火種となった。
この劇的な勝利により、イスラエルは中東紛争における圧倒的な優勢を獲得した。この優勢は現代にいたるまで揺らいでいない。
アラブ側においては全くの完敗であり、第一次中東戦争において確保していたパレスチナの残存部分をもイスラエルに占領され、パレスチナからアラブ側の領土は消滅した。ナセルの威信はこの戦争によって決定的に低下し、もともと足並みのそろっていないアラブ側の混乱がさらに顕著となった。第二次中東戦争においてエジプトが確保したスエズ運河も、運河の東岸はイスラエルが占領したため最前線となり、運河は通航不能となった。このためヨーロッパ・アメリカ東海岸からアジアへと向かう船はすべて喜望峰回りを余儀なくされることとなり、世界経済に多大な影響を与えた。スエズ運河は、第四次中東戦争が終結し、1975年に再開されるまでの8年間閉鎖されたままだった。
アラブ側は、イスラエルの存在を認めず、敵対を続けるという一点においては一致しており、戦争終結後まもない8月末から9月にかけて行われたアラブ首脳会議において、アラブ連盟はイスラエルに対し「和平せず、交渉せず、承認せず」という原則を打ち出した。また、それまでアラブ側国家の支配のもとにあったヨルダン川西岸やガザ地区などのパレスチナ残存地域やゴラン高原、シナイ半島がイスラエルの手に落ちたことで、第一次中東戦争を上回る多数のパレスチナ難民が発生した。
<消耗戦争>
この後、イスラエルとエジプトは完全な停戦状態になったわけではなく、「消耗戦争」と呼ばれる散発的な砲爆撃を行う状態が、1968年9月から1970年8月まで続いた。この「消耗戦争」を、それまでの戦争と区別して「第四次中東戦争」と呼ぶこともある。この場合は、下記の第四次が第五次ということになる。消耗戦争はエジプト側がスエズ運河の西岸からイスラエル占領地側の軍に向けて砲撃を行い、イスラエル側は優勢な空軍力でエジプトに侵入し爆撃を行うといった形で行われた。
<第四次中東戦争>
1973年10月6日、エジプトが前戦争での失地回復のため、シリアとともにイスラエルに先制攻撃をかけ、第四次中東戦争が開始された。ユダヤ教徒にとって重要な贖罪日(ヨム・キプール)の期間であり、イスラエルの休日であった。イスラエルは軍事攻撃を予想していなかった為に対応が遅れたといわれている。一方エジプト、シリア連合軍は周到に準備をしており、第三次中東戦争で制空権を失った為に早期敗北を招いた反省から、地対空ミサイルを揃え徹底した防空体制で地上軍を支援する作戦をとった。この「ミサイルの傘作戦」は成功し、イスラエル空軍の反撃を退けイスラエル機甲師団に大打撃を与えることに成功した。緒戦でシナイ半島のイスラエル軍は大打撃を受けたことになる。そして、エジプト軍はスエズ運河を渡河し、その東岸を確保することに成功した。
初戦において後れを取ったイスラエルであるが、反撃にかかるのは迅速だった。ヨム・キプールは安息日であり、予備役は自宅で待機しているものがほとんどだったため、素早い召集が可能だったのである。10月9日より、イスラエル軍による反撃が開始され、まずシリアとの前線である北部戦線に集中的に兵力を投入する戦略がとられた。大量の増援を受けたイスラエル軍は、シリア軍およびモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を破り、ゴラン高原を再占領することに成功した。シナイ半島方面においても、10月15日より反撃が開始され、翌16日にはスエズ運河を逆渡河、西岸の一部を確保した。ここにいたり、国際社会による調停が実り、10月23日に停戦となった。
この戦争においては、両者ともに痛み分けともいえる結果となった。イスラエルは最終的には盛り返し、軍事的には一応の勝利を得たものの、初戦における大敗北はそれまでのイスラエル軍無敗の伝説を覆すものであり、イスラエルの軍事的威信は大きく損なわれた。エジプトは純軍事的には最終的に敗北したものの、初戦において大勝利したことで軍事的威信を回復し、エジプト大統領アンワル・サダトの名声は非常に高まった。さらに緒戦においてではあるが、エジプトが勝利し、イスラエルが敗北したことにより、両国首脳の認識に変化が生じ、エジプトはイスラエルを交渉のテーブルにつかせることに成功。後のキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に結びついた。
なお、アラブ各国はこの戦いを有利に展開するため、イスラエルがスエズ運河を逆渡河し優勢になりはじめた10月16日、石油輸出国機構の中東6カ国が原油価格を70%引き上げ、翌10月17日にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエルを援助するアメリカとオランダへの石油の禁輸を決定、さらに非友好的な西側諸国への石油供給の段階的削減を決定。石油戦略と呼ばれるこの戦略によって世界の石油の安定供給が脅かされ、原油価格は急騰して世界に経済混乱を引き起こした。第一次オイルショックである。これによって、もともと1970年代に入り原油価格への影響力を強めていた産油国はオイルメジャーから価格決定権を奪取し、価格カルテル化したOPECが原油価格に決定的な影響を与えるようになった。また、これによってそれまでよりはるかに多額の資金が産油国に流入するようになり、産油国の経済開発が進展することとなった。
<アラブの連合>
4度の戦争を経過するに当たり、中東各国はまずアラブ連盟を結成し、イスラエルへの対抗姿勢を示すことでは一致した。また、イスラエルや西側に対抗するために、ソビエト連邦との関係を強め、あるいはエジプトのナセル大統領の提唱した汎アラブ主義に基づいて各国が合併や連合したが、産油国と非産油国の思惑は常にすれ違い、こちらはいずれも失敗した。
<中東和平への動き>
第四次中東戦争以後、イスラエルとアラブ国家との本格的な武力衝突は起きていない。いくつかの理由が挙げられるが、第一に、ナセルの後を引き継いだサダト・エジプト大統領は、反イスラエル路線を転換し、1978年3月に単独でキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に調印したためである。かつてアラブの盟主を自認し、中東戦争を先頭で進めたエジプトの離脱は、アラブの連携を崩した。エジプトはアラブ連盟の盟主であったが、1979年にはこの和平を理由として連盟から追放されてしまい、1990年まで復帰を許されなかった。サダトはイスラエル首相のメナヘム・ベギンとともに1978年度のノーベル平和賞を受賞したが、1981年10月、イスラム復興主義者により暗殺された。しかし親イスラエル路線は後継者ムバーラクが2011年のエジプト革命で政権を失うまで継続された。
1991年に中東和平会議が開かれ、1992年6月のイスラエルの総選挙で和平派の労働党連合が圧勝。1993年、アメリカ合衆国大統領に中東和平を重視した民主党のビル・クリントンが就任すると、前年にイスラエル首相となったイツハク・ラビンとともに、アラブ各国への根回しをしながら和平交渉に乗り出した。9月、PLOとイスラエルが相互承認した上でパレスチナの暫定自治協定に調印した。これによってヨルダン川西岸とガザ地区はパレスチナ・アラブ人の自治を承認した。協定は1994年5月に発効してパレスチナ自治政府が設立され、アラファトが初代大統領に就任したが、ラビンの和平路線は国内の極右勢力から憎まれた。また、イスラエルの存在を認めたPLOに対し、パレスチナの過激派からも不満が出た。
1994年7月、ラビンはパレスチナの国際法上の領主ヨルダンとの戦争状態終結を宣言し、10月に平和条約を結び、その直前にラビンはアラファトとともにノーベル平和賞を受賞した。
1995年3月にはゴラン高原をめぐってシリアと直接交渉を開始、イスラエル軍が段階的に撤退することとなり、ゴラン高原は国連の監視下に入った。9月、イスラエルとPLOはパレスチナの自治拡大協定に調印し、パレスチナのアラブ国家建設への道が開かれた。
<遠のく和平への道>
1995年11月、ラビンは極右のユダヤ人青年に射殺された。また1996年2月から3月にかけ、パレスチナ過激派がイスラエルでラビン暗殺に抗議する爆弾テロを引き起こし、和平はついに暗礁に乗り上げた。PLOは4月に民族憲章からイスラエル破壊条項を削除し、和平維持を望んだ。
9月、エルサレムでアラブ系住民が暴動を起こし、イスラエルは軍をもってこれを鎮圧した。1997年、イスラエルはパレスチナのヘブロンから撤退する一方、アラブ人の住む東エルサレムにユダヤ人用集合住宅を強行着工、国連は2度の緊急総会を開いて入植禁止を決議するに至った。ところが、イスラエルで爆弾テロが起こり、アメリカは和平継続を求めて中東を歴訪した。アラブ各国は中東和平交渉の再開に賛成し、一応の安定を見た。
1999年、PLOはパレスチナ独立宣言を延期。イスラエルはシリアと和平交渉に就いた。2000年にパレスチナ村の完全自治移行を決定した。しかし、聖地エルサレムの帰属をめぐって交渉は決裂した。イスラエルの右派政党党首アリエル・シャロンはエルサレムの「神殿の丘」を訪れ、パレスチナ人の感情を逆撫でする行動を取った。これを機に、パレスチナ全域で反イスラエル暴動が起こり(第2次インティファーダ)、中東和平はここに崩壊した。アラファトは親族の汚職疑惑などでPLOやパレスチナ自治政府における求心力を失っており、テロを抑止する事が出来なかった。
2001年3月、イスラエル首相に就任した右派シャロンは、PLOや武装勢力ハマースを自爆テロを引き起こし国内を混乱させている勢力であるとみなし、その幹部殺害を始めた。また分離フェンスを設置しパレスチナ側から非難を招いた。その結果パレスチナ側は自爆テロをエスカレートさせた。2002年にサウジアラビアのアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ国王はイスラエルの占領地撤退と引き換えに全アラブ諸国は国交正常化するという前代未聞のアラブ和平イニシアティブを提唱してアラブ連盟に全会一致で可決させ、イスラム諸国会議機構全加盟国の支持も受け、当時のイスラエル国防大臣だったベンヤミン・ベン・エリエゼルも「シオニズム運動史上最大の成果」と絶賛した。2004年にアラファトが死去、後を継いだマフムード・アッバースPLO議長がパレスチナ自治政府の2代目大統領に就任、「ヌアクショットからインドネシアまで全アラブ・イスラム諸国がイスラエルと和平を結び、国交を正常化する」としてアラブ和平イニシアチブの受け入れの要求をイスラエルの各主要新聞で大々的に宣伝した。一方、ガザ政府のハマースはイスラエルを承認することになることから、アラブ和平イニシアティブに否定的であった。
2006年7月、イスラエルのレバノン侵攻によりアラブ諸国がイスラエルを非難。
2008年12月27日、ガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織「ハマース」とイスラエルとの間に戦争が勃発(ガザ紛争)。2009年1月18日まで戦争は続いた。アラブ諸国はこの戦争を「ガザの虐殺」と呼び、イスラエルに対する憎悪が高まっている。ハマースとの停戦条約は締結されておらず、また、イスラエルによるガザ地区の封鎖継続は、2010年現在に至るまで人道危機を引き起している。
2011年9月にはアッバース大統領がパレスチナ自治政府の国連への加盟申請を表明、2012年11月29日には国連総会においてパレスチナを「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする決議案が賛成多数で承認された。これに反発してイスラエル国内ではパレスチナ排除を主張する極右勢力が伸長し、緊張が高まっている。年末には長期化しているシリア騒乱における戦闘の砲弾がイスラエル領内に着弾、これにイスラエル軍が警告射撃を行う事態も発生している。
2013年、エジプトのムルシー政権が軍部のクーデターにより倒されると、再び親イスラエル路線に回帰した同国にてガザへの密輸規制が強化され、結果弱体化したハマースが主流派ファタハに接近、パレスチナ挙国一致政権が発足した。これに反発したイスラエルが翌年に再度ガザに侵攻した。
(Wikipediaさん、ありがとうございました。若干編集させていただきました)
こんな歴史的、政治的背景を持つガザの最新情報を金子由佳さんが伝えてくれました。それを私がまた伝えします、当人の許可を得て、投影画面の写真で。
仮説住宅の劣悪な設備
子どもの描く絵
日本の震災に同情を寄せる子どもたち
お別れ映像がピンボケしちゃいました。
秩父にお住まいのユダヤ人、ダニーさんがお見えになっていて登壇。
「戦争は絶対しちゃダメ、良い人・普通の人を悪い人に、鬼に変えちゃうから。戦争は絶対にしちゃいけません」
ナチスの迫害に遭ったユダヤ人が、パレスチナでは加害者になっています。故国を持たないでいじめられていた民が、念願の自分の国を持とうと必死になって、先住民を迫害しています。一度暴力を用いると、憎しみが憎しみを産み、残虐行為の連鎖が始まります。罪のない子供が可哀想です。
民族差別はやめて、平等に、互いを尊重して暮らすしかないでしょう。
「他人の不幸は痛くも痒くもない」ではなくて、不幸な人の身にもなって、人の不幸をできるだけ減らす、そんな価値観を共有しようではありませんか。
みなさんのご感想はいかがですか?
金子由佳さんの、虎穴に入る勇気と、重いメッセージを背負ってなおへこたれない足腰に、改めて敬意を表したいと思います。
苦難の歴史。知らないことばかり。辛すぎます。
>「戦争は絶対しちゃダメ、良い人・普通の人を悪い人に、鬼に変えちゃうから。戦争は絶対にしちゃいけません」
まったくその通りです
by kazg (2017-08-30 04:49)
kazg さんへ
さっそくコメントをありがとうございます。
ダニーさんの写真が載っていないことに気付き、大急ぎで修正しました。
by momotaro (2017-08-30 05:54)
この問題はとても理解できないほど複雑ですが
現時点で考えるとパレスチナの攻撃の10倍近い反撃をイスラエルはしています。
そこに住む人たちの命も人権もありません。
宗教と相まってなおわかりにくいのですが、
私も秩父でお会いした、ダニーさんのように、自分の国だからという事では無く
何故悪いのかという視点で物事を見るのがわかりやすいですね
by majyo (2017-08-30 09:44)
パレスチナ、イスラエルの問題は、歴史的に遡って判断すればよいという簡単なものではなく、関係する人々に対して、平和に安全に一定の文化的健康な生活を保障することを大前提にして、歴史をしっかりと踏まえながら共存の道を探る以外に手はありません。その際に最も重要なのが、第三国、部外者の利権を一切排除することですが、この問題が解決が難しいからこそ解決されていないと思います。
紛争地域の解決には、国連の機能、権力をもっと強化しなければなりませんが、こちらも特定の大国(常任理事国等々)の利益、発言が優先されていて、問題は先送りされてばかりいます。
断固許してはならないのは、無関心であること、興味を持たないこと、事実を知ろうとしないこと、事実に耳を傾けないこと、何もせずに漠然と絶望したりすることではないでしょうか。
焦らず、腐らず、着実に平和、共存、人権、自由について、議論できるように地道な活動をする以外に手はないのではないかと思います。
by アヨアン・イゴカー (2017-08-30 09:46)
パレスチナの子供が生まれてくる国や地域そして境遇を選べたならば、パレスチナを選んだんだろうか?
自分の子供のころの目に立ち返ると・・・自分の境遇を大事に思ってくれる人に出会ったとき、はじめて、自分の生まれてきたことの意義を考え承知したように思われます。
すくなくとも、自分たちのために遠い国から来て生活改善に取り組み活動する日本人を見て育つ子供はその意義を理解するのだと思います。
ひとに大事に思われて初めてひとを大事にすることを学習するはずです。
わが息子Yは管理栄養士ですが、限られた物資でいかに栄養価値の高いレシピを作れるかを由佳と携帯電話連絡を取り合っていました。
たいしたことはできなくも、市民の立場で平和のために参画するとはそんなことだと理解してます。
by SUN FIRST (2017-08-30 12:00)
majyo さんへ
>そこに住む人たちの命も人権もありません。
そこが問題なんですよね、
過去の研究は反省点を見つけるためで、解決策はまた別ですからね
こんな状態をいつまでも続けるものじゃありませんよね
大国が干渉せず、当事者の話し合いでなんとかすべきです。
という圧力をかけたいですね
by momotaro (2017-08-30 14:45)
アヨアン・イゴカーさんへ
ご意見ありがとうございます。
うなずきながら拝読しました。
>紛争地域の解決には、国連の機能、権力をもっと強化しなければなりませんが、こちらも特定の大国(常任理事国等々)の利益、発言が優先されていて、問題は先送りされてばかりいます。
住民とゲリラとの区別のつかない地域と違いますからね、
こういう地域をなくせないようでは、大国とも言えませんわね
>焦らず、腐らず、着実に平和、共存、人権、自由について・・・
地道な活動を続けて参りましょう!
by momotaro (2017-08-30 14:56)
SUN FIRST さんへ
子どもが生まれ出る境遇を選べたら、だれも天井のない監獄なんか選ばないでしょうけど、生き物って、自分の生命が危うくなると、危険がわかっていても生命活動が活発になっちゃうんですよね。
>自分の境遇を大事に思ってくれる人に出会ったとき、はじめて、自分の生まれてきたことの意義を考え・・・
そうか、現地の人の生活を心配して何度も訪問しているわけですね、
そのこころが、キリスト教的に言えば「博愛」、仏教的に言えば「慈悲の心」が第一に称賛に値しますね。
さすが伯父さんだと思いました。
そういう優しい心は、ご子息さんもしっかり共有されてますね。
素晴らしいことです、血筋ですね!
by momotaro (2017-08-30 15:21)
中東は、我々には計り知れない
宗教・領土・民族・・・の争いがあります。
紛争のたびに多くの国民が犠牲になり
住む家も追われています。
私が一番理解できないのが宗教同士が弾圧しあうことです
神の教えは、平和や安らぎや救いではないのでしょうか。
分からなくなってきます。
by ファルコ84 (2017-08-31 22:21)
ファルコ84さんへ
中東発の宗教は、民族間の紛争が元で生まれたように思えます。
それぞれが自分たちが善で他を悪だと思っています。
宗教、信仰ということで善悪を絶対視してしまいます。それでは争いが絶えないことに気づくべきです。
過去の固定観念よりも、現在の人道を大事にすべきです。
こんなことを言えるのも東洋人だからかもしれませんね。
by momotaro (2017-09-01 06:15)