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「美しい国へ」安倍晋三評④ [人間考]

 第二章「自立する国家」の後半である。ここでは拉致問題から離れて、国家について一般論を展開しようとしている。

 最初の見出しは「はじめて『国家』と出会った幕末の日本」
「ペリーの来航」以来、日本は「一つの国家としての国防を考えなければならなくな」り、欧米数カ国と「条約を結ぶことになるが、これらはひどい内容で…明治の日本人は、この不平等条約を改正するのに大変な苦労をした。」「明治の国民は、なんとか独立を守らなければ、列強の植民地になってしまうという危機感を共有していたのである。」と当時の状況を解説している。一般に言われていることと大差はないように思う。この歴史的考察はこれ以上続かないので、何のために書かれたのか、よくわからない。
 もしかしたら、ドイツ・イタリアと三国同盟を結び、大陸と大洋で戦争を繰り広げ、終戦の見通しも持たないまま、あの悲惨な戦争を続けてしまったのは、明治の人の《欧米の植民地にならないためには、欧米にならって植民地を持つ国にならねば…》の意気込みの延長だったのだから、すべて止むをえない国策だったと言いたいのかもしれない。だとしたら、国家の指導者の政治責任を余りにも軽く見た歴史観と言わざるをえない。
 世界は変化している。世界を股にかけた欧米の植民地獲得合戦も様相を変えていく。潮目があったのだ。それに気付かないまま、帝国主義の後追いをやったがために、悪役をやってしまったのだ。それを旧来の世相・価値観に立ち返って歴史を見直してみると、それなりの正当性はあったのだと今さら言うようでは、時代錯誤の上塗りをするようなものだろう。
 
 さて次の見出しは「自由を担保するのは国家」
 ここで唐突に「森嶋通夫氏と関嘉彦氏との間でたたかわされた有名な防衛論争」の話が持ち出され、森嶋氏が「(ソ連が侵攻してきて)不幸にして最悪の事態が起れば、白旗と赤旗をもって平静にソ連軍を迎えるより他ない。…ソ連に従属した新生活も、また核戦争をするよりもずっとよいに決まっている」と述べたことが紹介される。そして「個人の自由を担保しているのは国家なのである。それらの機能が他国によって停止させられれば、天賦の権利が制限されてしまうのは自明であろう」と自論を述べる。さらに、「この論争がたたかわされてから四半世紀、わたしたちはすでに…冷戦がどのように終焉したかを知っている。」と締め括る。
 二ページ足らずだし、前段に続き論旨が不明確でもあるので、このまま素通りしたくもあるが、読み返してみると、何か奥歯に物の挟まったような、変なページだ。北朝鮮による拉致問題については、大変具体的でわかりやすく話を進めてきたのに、そこから離れたら、途端に抽象論が多くてわかりにくくなった。「自由を担保するのは国家」だからしっかり国防をしなければならないと言いたいのだろうが、それならば「自由を奪うのも国家」なのだから、日本は、憲法にある通り、国民の基本的人権を尊重し、国民にもろもろの精神的自由を保障する国であることを、肝に銘じてもらいたいものである。国家が特別守りたい秘密があるなら、関係者に守秘義務をしっかり課せば良いだけのことで、特定秘密保護法という形で、国民の知る権利や活動、報道・表現の自由を制限することはないではないかと言っておきたくなる。
 それから、防衛大論争の決着と、冷戦の終焉とは何ら関係のないまったく別の問題であることも言っておかなければなるまい。

 次なる見出しは「国はわたしたちに何をしてくれるのか」
 外国を旅行したいときはパスポートを持っていれば国家が担保することによって安全に渡航することができるというお話。「ということは…個々人にも応分の義務が生じるということでもある。たとえば、タックス・ペイヤーとしての義務を果たす。一票の権利を行使する。…」とも書いてある。益があるのだから国家に忠誠を尽くせと言いたいのだろうが、はしょりすぎていて、論法に無理があると言わざるをえない。益の例がパスポートと言うのも説得力に欠ける。

 次は「はたして国家は抑圧装置か」
 先に問に対するわたしの答えを言わせてもらうと《抑圧装置ではないが、国政の間違った選択により、多大なリスクを背負わされかねない仕組み》そんな印象を持っている。安倍さんの答えを要約すると《国家は、国民と対立する概念ではない。国家は日本を守る。「その体制の基盤である自由と民主主義を守る」。しかし安全保障の議論をすると「自由と民主主義を破壊するという倒錯した考えになる。」怪しからん。》自由と民主主義を守る国防のために、自由と民主主義を犠牲にするというのだから、どちらが倒錯なのかは、一重に程度の問題と言うことになるだろう。

 「『靖国批判』はいつからはじまったか」
「政府としては八五年…以来、参拝は合憲という立場をくずしていない。」いわゆる「『A級戦犯』…の御霊が靖国神社に合祀されたのは一九七八年である…が中国はクレームをつけることはなかった。」「靖国が外交問題化したのは、八五年…中曽根参拝の一週間前の八月七日、朝日新聞が…『中国は厳しい視線で凝視している』」という記事を載せ、それに中国が反応したのが「きっかけ」だと国内の新聞社を名指しで非難している。
 靖国問題は外交問題に発展したが、国内問題に元があったという認識には同感である。ただ、安倍氏は「わが国のために戦い、命を落とした人たちにたいして、尊崇の念をあらわすとともに、その冥福を祈り、恒久平和を願うために」参拝するのだから、ごく自然でどこに問題があるのか、問題にする必要はないではないかという姿勢である。この点は、どうにも賛同できない。大いに問題があるではないか。赤紙をもらって戦場に駆り出された人と、見通しもないまま兵を集め戦争を遂行し続けた人とを同列に扱うのか、為政者の責任はまるで問わないのかという問題がある。内地の地上戦で、あるいは空爆で犠牲になった国民は対象にならないのかという問題がある。さらに、神として祀るという宗教観が、一方的にすぎるではないか、本人や家族の同意は得られているのかという問題がある。「得る必要もなく国家のための戦争で兵士として亡くなった者は、みな靖国神社に神として祀ることになっている」ということなら、なおさら問題が大きいではないか、どこが自由と民主主義の国なのか、信教の自由はどこに行ったかという問題になる。徴用した、あるいは犠牲になった外国人の問題など、他にも問題はある。
 靖国参拝は、少しも「自然で問題のない」行動ではないと言わざるをえない。

 次は「『A級戦犯』をめぐる誤解」
 いわゆる『A級戦犯』は「極東国際軍事裁判で…裁かれた人たちのこと」で「指導的立場にいたからA級、と便宜的に呼んだだけのことで罪の軽重とは関係がない」と終始弁護している。偉い地位にあった人は偉いのだから、後の者、あるいは余所の者が結果論で裁くものではないと言いたいようである。だが、犠牲の大きさを考えてみると、それで済むはずがない。
 また、この章でこの問題を扱うということは、安倍氏が「自立する国家」を語る際は、靖国、あるいは「A級戦犯」を擁護することが欠かせない重要テーマになっているということが看て取れる。ということは、安倍氏の言う「自立する国家」にとって、靖国神社は必需品なのだろう。
 これは、広く国民に諮らなければならない、国の在り方についての大変重要なテーマであると思う。

 第二章最後の見出しは「ある神父の卓見」
 ここも靖国と東京裁判の話である。「日本は講和とひきかえに、服役中の国民を自国の判断で釈放できるという国際法上慣例となっている権利を放棄することによって、国際社会に復帰したのだ、といってよいのではないだろうか。」と括る。それで十分なのだから、あとは祀ろうが拝もうが、とやかく言われる筋合いはないと言いたいのだろう。
 ある神父の卓見とは、「GHQが靖国神社をどうするかを検討するとき、マッカーサー元帥の副官が、駐日バチカン公使だったブルーノ・ビッターに意見を求めた」ところ、「いかなる国民も、国家のために死んだ人びとにたいして、敬意を払う権利と義務がある。もし靖国神社を焼き払ったとすれば、その行為は、米軍の歴史にとって、不名誉きわまる汚点となって残るでしょう。」と進言したことを指している。「神父の提言もあって、靖国神社は難を逃れた。」
 
 日本人には、何でも神様にして、平等に手を合わせるおおらかな宗教心を持っている人が多い。そんな習性から、分け隔てなく合掌するなら、それは日本人の美点かもしれない。そういうことが安心してできる施設を、国は早く作るべきである。靖国参拝から、おおらかさではなく、主義主張の強さを、頑固なこだわりを感じるのは、わたしばかりではあるまい。

          2014.8.20
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momotaro

makimakiさん、たびたびniceをありがとうございます。
いただくと、「とりあえず及第点!」とホッとします。サンキュー
by momotaro (2014-08-24 16:06) 

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