SSブログ
『友よ、戦争をしない・・・』広場 ブログトップ
前の10件 | 次の10件

友よ、戦争をしない世界を創ろう! その10  [『友よ、戦争をしない・・・』広場]

   真っ直ぐ目的に向かって進もう!

 もういい年のおっさんが、何をたわけたタイトルを掲げているのかと、我ながら思わなくもないが、本心なのだから仕方がない。実は、最初は「真っ直ぐ夢に向かって」と題してみた。だが「夢」では、「なんだ、夢かよ。それなら、ひとりで見ていろよ」と軽くあしらわれかねないので止めて「目的」にした。
 この場合の目的は「戦争をしない世界を創ること」だ。その目的にしてもますます「何をたわけた…」の部類に属するに違いない。だれだってそうしたいに決まっている。戦争をしない世界に向かって真っすぐ進めていけたらそんな楽なことはない。だがなかなかそうならないのが人の世だ。それでみんなあくせく色々なことをやっているのではないか…、と叱られそうだ。

 私も長年そう思ってきたのだが、去年の終わりごろから心もちが少し変わってきた。このシリーズを始めたきっかけは、昨年、安倍首相が突如衆議院を解散して、その国政選挙の公示を翌日に控えた12月1日、筆者の許に、遠方の友人から「野党は全然頼りにならないので、安倍政権を強固にするため与党に投票することが賢明」というメールが届いたことだ、と冒頭に記した。こういう意見が多数派でもあるらしいので、彼を説得することには意義があるはずだと思ったのだ。

 しかし、こういう青臭いタイトルを真っ直ぐ掲げたくなる心境の変化は、実はそれ以前にあったのだ。二つほど感動したことがあった。
 一つは、昨秋沖縄県知事になった翁長さんの挨拶だか演説だかのなかに、沖縄の青い空も美しい海も、国家のものでもなければ、どこかの軍隊のものでもない。そこに住んでいる住民のものだという趣旨の発言があった。(正確な言葉を引用したくてネットをあちこち調べてみたが、残念、行き当たらなかった!)
《まったくそうだよ、自然の素晴らしさは、まずはそこに住んでいる人のものだよ。素晴らしい珊瑚の海を軍隊の基地にするなんて、住民のだれが承知したというのか?失われた福島のよさも、一番痛切に感じているのはそこに住んでいた人たちだ。気の毒なことをしたものだ、誰がどう償うというのか、できはしないではないか。翁長さんは、真っ直ぐに、いいことを言ったうなあ》と感銘したのだった。

 もう一つ感動したのは、ノーベル平和賞を受賞した、17歳の少女マララ・ユスフザイさんの演説だ。(こちらは演説の全文を確認することができた)そこで彼女は、教育の素晴らしさを説き、全世界の子供が、質の高い初等・中等教育を受けることができるようにするべきだと、世界中の大人たちに訴えている。彼女は言う、「非現実的だとか、費用がかかりすぎるとか、難しすぎるとか言う人たちもいるでしょう。それでも、今こそ世界がより大きな視野で考える時なのです」と。

 演説の最後は
「『最後』にする事を決めた、最初の世代になりましょう。空っぽの教室、失われた子供時代、無駄にされた可能性を目にすることを『最後』にすることを決めた、最初の世代になりましょう。男の子も女の子も、子ども時代を工場で過ごすのはもう終わりにしましょう。少女が児童婚を強いられるのはもう終りにしまょう。罪のない子どもたちが戦争で命を失うのはもう終わりにしましょう。学校に行けない子どもたちを見るのはもう終わりにしましょう。
 こうしたことは、もう最後にしましょう。この「終わり」を始めましょう。そして今すぐにここから、ともに「終わり」を始めましょう。サンキューソーマッチ、サンキュー」

 彼女は良かれと思う目標に向かって、真っ直ぐに提案している。私が心打たれたのは、何よりも「もう、終わりにしよう、これを最後にしよう」という表現かも知れない。現実的と称する人の歴史観は、今まであったことは、当然あり続ける、なくなることはないとするものだ。だが、それではいつになっても人間の愚かな行為は収まらない。差別も戦争も虐殺も搾取も…しかも、科学文明は進歩し、情報は飛び交い、武器は破壊力を増し続ける。旧態依然としていてはいけないのだ!と、17歳の少女に、世の大人すべてが訴えかけられたのだ。

 今までがそうだったからと、今後の世界も弱肉強食だと決め付けて、そこを生き残ることを考えることこそが現実的な賢い頭の使い方だと考えるのは、どうだろう、もう、今日を最後に止めようではないか。
 忍び寄る危険に備え、揺るぎない自らの繁栄を考える、賢いかも知れない「現実的な」考えを連ねていくと、どこにたどり着くか考えてみようではないか。戦争抑止の名の下に報復のための兵器は威力を増し続け、安全のためと称し守備範囲は拡大し続け、他国との同盟関係は強固になり続け…、しかし、どこの国も同じ行動を取り続けるから、少しも安心に到ることはなく、どこかの小さな争いが争いの連鎖を生み、憎しみと殺し合いが波紋のように拡がり、やがて世界中が生き残りと覇権を争う状況となり…そんな見通しのどこが現実的だというのだろう?70億の人類はわずか数億に、いや人口すらわからなくなり、文明は滅び、モンスターのような人と組織が支配する恐怖の惑星になり……、単なる愚かな人間の末路を露呈するだけではないか!
 そんな道行きに頭を使うのは、もう止めよう。歴史は、過去の過ちを、人間の愚行を繰り返すことのないように、研究し活用しよう。こんなだった、あんなだった、どこの国もこうだった、そんな負の遺産を真に受けて、だから今後もこうなるという、そんな頭の使い方は、もう、今日を限りに止めようではないか!

 沖縄県知事やマララさんの発言を見習おう。それが、せっかく賢い脳をいただいた人間の生き方だよ。そのことをお伝えしたかった。

(なかなか時間がなくて長期にわたってしまい失礼しました。拙く長いものをご高覧いただきありがとうございました。ご意見ご感想をお待ちしております。燦Q)

nice!(10)  コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

友よ、戦争をしない世界を創ろう! その9 [『友よ、戦争をしない・・・』広場]

   日本国憲法第9条について

 君は憲法9条について次のように記している。
「憲法9条では国権の発動たる戦争は放棄(1項)になっていますが、ここでいう国権とは、国家権力なのか国家の権利なのか。TBSのスタンスは…国家権力的な見方をしていて…戦争反対ということ…ですが、一方、国権を国家の権利と見ると、日本は9条で国際的に認められている権利の一つを自ら進んで放棄したということになりますが、こちらの国家の権利という観点で戦争の是非を論ずることは決して否定すべきことではなく、現実対処の一手段として必要と思うのです。」と論じておられる。
 ここでキーワードになっている「戦争が国家の権利」がそうであるのかないのか、じっくり考えてみようではないか。

 一般に、権利とは、「あることを主張することに正当性がある、行使しても罰せられない正しいこと」と受け止められる。果たして、戦争とはそのようなものなのか?一旦起これば人命を犠牲にし、財産を破壊し、地球環境を悪化させても一顧だにしない、そのような人の行なう行為に正当性が認められるのか?行なう主が国(家)ならば、それは処罰の対象にならない正しい行為なのか?
 いやいや、全然そんなことを認めることはできない、やはり蛮行・愚行ではないかと私は思う。私だけではなく世の多くの人が、おそらくそう思っているように思う。

 それなのになぜこのような議論が興るのだろうか?
 思うに、どこかの国が、たとえばAという国がBと戦争をした。その後Cとも戦争をした。今はDと戦争をしている。それなりに理由があり、だれも止めることのできない仕方のないことだ。思えば、EもFもGも…みんな戦争を体験して、生き延びてきた国々だ。だから、今ある国々はみんな戦争をする権利を持っているのだ。やっていいのだ。
 もしも、このような考えが根底にあるようなら、それは権利という言葉の使い間違いではないだろうか。権利があるとかないとか言えるのは、法が治める世界での話であろう。「それは権利のある正しいことだから行なってよろしい。それは権利のない間違ったことだからやってはいけない、もしやれば何らかの処罰を下す」と言える秩序なり強制力なりがあって初めて言えることであろう。
 今の地球に、どこかの国が戦争を始めたときに、それを言える秩序や強制力があるだろうか?残念ながら、ない。まだ不十分なのだ。だから、現状では、戦争は、現実にあることとして、受け入れるしかないのだ。つまり、あっても仕方のないことなのだ。

 あっても仕方のないことを「権利」と言ってはいけない。それはまったくの用語のミスだと私は思う。どこの学者が、研究者が、評論家が言っているのか知らないが、仕方なしにすることを権利と呼ぶことは間違いだと私は思う。(戦争をするものは、いつ何時でも裁きに応えなければなるまい。)過去しか見ないで現実主義者だと思っている人の編み出す屁理屈ではないかと思う。未来社会にあってはならないもの(なくなって欲しいもの)に、安易に「権利」の称号を与えるものではないと思うのだ。どうだろう?

 そう考えれば、日本国憲法9条は、どこの国も持っている権利を自ら放棄した無益な規定ではなく、あっても仕方のないことをあってはならないと、世界に先駆けて宣言した、たいへん潔い、人類史をリードする画期的なものと評価することができる。私はそういう解釈を選ぶ。

 綺麗ごとを言って、それで国が滅びたらどうするのかと君は心配するだろう。正に、南原繁氏の
「それだけに問題があることを又私共は考へなければならぬのであります、理想高ければ高いだけ、それだけに現実の状態を認識することが必要でございます、さうでなければこれは単なる空想に終るでございませう」という懸念に通じる。そこで南原氏が何を要求しているかと言えば、
「従って私共は此の歴史の現実を直視して、少くとも国家としての自衛権と、それに必要なる最小限度の兵備を考へると云ふことは、是は当然のことでございます」と時の総理に詰め寄っている。

 この南原氏の質疑はたいへんもっともと思えるもので、その後、警察予備軍、やがて自衛隊が創設、編成されて、無法な国の侵略に対する備えは、既に有しているのが現状だ。憲法や法の定めは、それに従うものには意味があっても、従わないものには意味がない。だから、従わないものに対する備えまで無用と言っているわけではないのだ。そういう危惧は、我が国は、とうの昔に克服しているではないか。

 無法な国の不法な侵略への対抗措置は別にして、やはり、戦争する権利など、認めるべきではないと思うのだ。このような考えは、優秀な頭脳の持ち主がクールに現状分析をしようとする熱意のあまり、生まれるのではないだろうか。あるいは、何とか戦争を肯定したい人が、過去や現在にその正当化の根拠を求めてたどり着く思考回路なのではないだろうか。
 君はおそらく前者だろうと推測している。

 情熱は、まっすぐ目的に向けたほうがいいのではないか、ということを次回(たぶん最終回)はお伝えしたい。(お伝えできたらいいなと思っています。読者の方には、いつも長いものをお読みいただき、たいへん感謝しております。)


nice!(7)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

友よ、戦争をしない世界を創ろう! その8 [『友よ、戦争をしない・・・』広場]

   友からのメール第三弾に応える

 まず、2つの報道番組について。私はどちらも見ていないので、自分自身の感想に基づいてコメントすることはできないけれども、君の感想についてはいくつか疑問を抱かざるを得ないので、率直に異論を申し上げたい。

 君はTBSの番組姿勢を嫌っている。理由は、
①「根拠の説明もなくあの戦争は間違いだったという決めつけ」があったということ、
② 戦争証言者の階層や位置について、恣意的に決め付けることによって、自分達の主張に合うように番組を組み立てているなと感じられたことを挙げている。

 まず②については、テレビ番組に限らず、何か作品を作るときには、伝えたいこと(主張)があって、一生懸命資料を集めてそういう結論にたどり着くようなものを作ろうとするだろうから、これは止むを得ないことではないかと思う。ただしTBSに味方するつもりもないので、「感情論から戦争を論じても結論は明らか」と一蹴されるようでは、ちょっと堀が浅かったのかなあ…と思わないわけでもない。
 ①については、「あの戦争は間違いだった」というのに理由を言わなければならないという主張に、むしろ驚きを感じる。あれは間違っていたとして国は出直したし、義務教育の課程でも、一貫してそういう立場がとられ、教え、教えられてきたと思う。その後、歴史教科書を見直そうという考えを主張する人たちも出てきて、そうした意見を耳にすることもある。しかし、世の常識は「あの戦争は間違いだった」ではないだろうか。だから、TBSはその説明を省いたのだろう。根拠の説明がないことに違和感を覚える君に、正直、驚きと隔たりを感じる。だが、隔たりを知ることは決して悪いことではない。
「あの戦争は間違いだった」と決め付けることに抵抗のある人がいる時代になったのだ、なんだか時代を逆戻りするようだが、どうやらそうらしい。TBSさんもそこから始めるようにしないと着いて来ない視聴者がいるということを認識したほうが良いのかもしれない。

 では、あの戦争はなぜ間違っていたのだろう? 改めて、大急ぎで考えてみよう。
 江戸末期、欧米列強の植民地獲得合戦のさ中に、倒幕に成功した維新政府が世界デビューし、富国強兵を旗印に、国力を急速に伸ばし、日清・日露と勝ち進み、アジアの一大勢力としての地位を築いていく。そういう国策が間違っていたのか正しかったのか、考え方は様々あろうが、結果として、どこかの植民地となることもなく、文化と伝統を維持し伸張してきたのだから、これは間違ってはいなかったとしよう。
 しかし、藩閥の中央政府は、自由民権運動や大正デモクラシー、数々の民主化運動を押さえ込み続けた。やがて、五一五事件、二二六事件などか起こるようになり、枢密院から軍部へと、国政の最高決定機関が移っていくことになるが、いずれも極めて閉鎖的なものであった。

 内政に民主的な進展が見られなかったため、国の進路を選ぶに当たっても多様な発想が採り入れられず、明治初期の国策の延長である大陸への進出を拡大するばかりであった。やがて、勝ち目は乏しく犠牲の多い戦争に国を挙げて突入し、若者を特攻隊に駆り立ててまで戦争を止められなかったのが、あの戦争だ。当然「戦場の殺し合いとか原爆、東京大空襲などの一方的虐殺という悲惨な面」も伴っていた。
 間違っていたのは当然で、どこから悔い改めて二度と同じ間違いをしないようにするか、頭を使うならそこからではないかと思うのだ。

 もっとも、君も「戦後70年で我々が考えないといけないのは、国家の権利の発動たる戦争でいかなる理由でその権利の主張が正当であったのか、戦争という悲惨な結果を招く最終手段をどうして回避できなかったのか、など戦前の日本の思考と行動を検証し何を教訓とするのか、ということであって」と述べておられるから、このあたりの考えに大きな隔たりはないということなのだろう。
 ただ、「国家の権利の発動たる戦争でいかなる理由でその権利の主張が正当であったのか」の部分に、君はより重きを置いているように感じられる。この部分については、「いかなる理由で権利の主張が正当であったのか」という捉え方よりも、「いかなる理由を掲げて戦時体制に国家を導いていったのか」という捉え方を、私はしたい。つまり、不適切な方向に、どんな性格の人たちが、どんな勢力の人たちが誘導していったのか、そこに関心を向けたい。

 君は、しばしば、戦争は正当な権利だと述べている。そのために、正当性を追求したくなるのだろう。それでいて「戦争をどのレベルで語るのかという部分で、戦場の殺し合いとか原爆、東京大空襲などの一方的虐殺という悲惨な面で戦争を見ていけば100人中100人が反対するのは当たり前」とも述べている。これはどう考えても矛盾していて、両論が並び立つことはあり得ないと思う。そんな複雑な思考をめぐらす必要はまったくないし、第一不可能だと思う。
 また君はこうも述べている。「(幼児的、女性的)感情論から戦争を論じても結論は明らかであまり得られるものはないと思うのです。かくいう私も戦争は絶対反対ですよ。」では、それで決まりではないか、というのが私の考えだ。
 それが、幼児的・女性的な感覚や発想でも、いったん戦争が始まれば、幼児も女性も(割合からいっても三分の二を優に超える)巻き込んでしまうのだから、それを軽視して善い理由はないはずだ。また君自身もまったく認めているとおり、否定する理由もないはずだ。

 しかし、男同士の話(もちろん女性の参加を拒むものではありません)を進めるとすれば、権利論がおかしいのではないかと思う。
 君は「一方で政治や経済、外交といった国家運営と戦略というスタンスでは、戦争は国家意思表明の一手段として国際的にも認められているというか、どの国も持っている正当な権利(生存権)ということなので」と記している。
 頭でこう思ってしまうと、「正しいことをやってなんで悪いのだ?欧米先進国がみなやってきたことではないか、負けたから、結果論として悪とされているだけではないか」という論理が浮かんでくる。
 だが、そもそも、「戦争は国家意思表明の一手段として国際的にも認められている」のか、「どの国も持っている正当な権利(生存権)」なのかをよく考えてみようではないか。

 これは、著しく間違った考えではないかと思うのだ。どこの国際会議でこんな意見がまかりとおると言うのだろう。かつて、世界の秩序がまだ築かれていなかったころは、こういう振る舞いをした国もあったであろうし、他国がそのように振る舞う以上は、自国もそうする権利があると主張する国もあったであろう。しかし、今、こんなことを主張する国や人が、本当にいるのかと大いに疑問に思う。
 戦争は、国が侵略されたり、内政や経済活動等が外部の力によって著しく不当に歪められたりしたときに発動することが許される、極めて限定的な、制約の多い行為であって、行使することが正しいという意味の権利とはおよそ違うものと思うのだが、どうだろう?

 君は、この論の延長線上で日本国憲法第9条について触れている。この点も考え方に隔たりを感じるので、もう少し考察したいと思う。だが、既に長くなってしまったので、この辺で一区切りつけることにしたい。


nice!(4)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

友よ、戦争をしない世界を創ろう! その7 [『友よ、戦争をしない・・・』広場]

   現政権を支持しない理由

 友よ、この記事のきっかけとなった、君から届いた最初のメールに戻ってみたい。その終わりは
「社会への非責任世代であった昔の学生時代での反体制運動のノリで(アベ政治にノーというだけで)は間違いますよ。」となっていた。
 ここには誤解があるように思うので、正しておきたいのだ。
 
 かつて、戦後の多子世代(俗に言う団塊の世代)が学生生活を送っていたころ、確かに反体制運動が賑やかに行われた時代があった。大学を封鎖して学生ストライキを決行(?)したり、ヘルメットを被り、角材や鉄パイプを持って集結しデモ行進をし、機動隊や敵対する学生グループと対峙したりすることがしばしばあった。このため、この(我々の)世代は全共闘世代とも呼ばれている。
 取り締まりが強化されると、運動は、機動隊等に対する投石や火炎瓶での闘争にエスカレートしていった。セクトの指導者達はやがて地下に潜伏し、互いに抗争を繰り返しながら、過激な反体制運動を単発的に起こすようになった。

 この時代の学生運動をどう評価するかはいろいろな見方があるだろうから、ここでそれを取り上げようとは思わないが、私がどう受け止め関わっていたのかは、少しお伝えしておかなければならないと思う。私は、非責任世代の学生時代に、反体制運動にほとんどノッていなかったからだ。

 同級生の数人がするアジ演説のいわんとすることはわからなくもなかった、というか、体制批判はたいてい当たっているのだろうと思って聞いてはいたが、これから世の中に出ようとする若者の多数が、このような考え方をもって世の中を動かすようになれば、遠からず世の中は変わっていくだろうと思ったのだった。

 だから、なぜ勉学も半ば、いや始めたばかりで、このように夢中になって身体を張って運動する必要があるのかと疑問に思った。活動家にそんな疑問をぶつけると、「卒業が近付いて就職しなければならなくなると、こんなことは言っていられなくなるから」と言っていた。そうか、そんな気持ちでやっているのか、それでは、世の中はなかなか変わらないなあと、思ったものだ。変えたければ一生かけて変える努力をすればいいじゃないか、世の中に出る前に、ここでやらなければ、と大騒ぎするのは、甘たれ坊主の通過儀礼のようなものではないかと、そんな感じをもっていた。

 だから学園ストの間は実家に帰っていることが多く、デモに加わって騒ぎの渦中にいるときより、茶の間でニュースとして見ることのほうが多かった。少なくとも、両方の目で、時代の騒ぎを見ていた。
 そんな受け止め方が善かったとか、正しかったとかと、ここで主張する気などないが、自分の学生時代の考え方と行動はそんなだったのだ。

 友よ、君は、社会主義とか、現実社会の欠点を克服した社会への、つまり無い物ねだりの憧れを、知識人と言われる人が持ちやすいと思ってはいまいか。当時の学生運動は、その典型だと思ってはいないか。確かに、旅客機を乗っ取って、憧れの北朝鮮に亡命した一派もあった。その延長線上に、まだ多くの人がいると思っていないか。私もその一人だと思ってはいないか。
 矛盾に満ちてはいても、今、現実にある幸せの重みをきちんと理解して、それを持続していくことに、もっと真剣に取り組んでいくべきだと、それこそが過ちの少ない生き方だと、思ってはいないか。
 
 私の発想は、それらとは少し違う。まず、知識がモノを解決するとは思っていない。そうではなく、大勢の人々の歴史的な体験が、次第に世の中を、世界を、変えていくものと思っている。日本人が体験した第二次大戦はその一つと思う。沖縄の地上戦もその一つと思う。東京電力の原子力発電所の大事故も、その一つと思う。70年続いている占領軍の有形無形の影響もその一つかも知れない。

 こうした大きな負の体験は、世の中を変えるきっかけとなり得るのだ、いや、きっかけとして、後の世を変えようとすることが、生き残った者の、あるいは後から生まれてきた者の務めだと思うのだ。
 歴史は繰り返す、とよく言う。確かに小さな出来事は繰り返すが、大きな出来事は繰り返させてはいけないのだ。人間に備わった向上心が、そんなバカなことは許さないはずだ。

 そういう心積もりが感じられない今の自民党政権に、日本の政治を任せておくわけにはいかない、これが、私が現政権を支持しない理由なのだ。
 決して軽いノリではない。友よ、君にはきっとわかってもらえると思う。

nice!(8)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

友よ、戦争をしない世界を創ろう! 番外2 [『友よ、戦争をしない・・・』広場]

   友から届いたメール第三弾

 この記事を書き始めるきっかけとなったメールの主から第三のメールが届いた。沖縄問題についてはかなり共通の認識を持っていることが確認できたが、さて今回はどうだろう。まずは、ご意見をじっくり伺うことにしよう。お読みになった方のご意見・ご感想も聞かせていただけたら幸いである。

 以下が友から届いたメールだ。

「 沖縄の話が受けたようなので、2匹目のどじょうを追って我がブログの原稿を2つ送ります。この2つは上の句と下の句のセットなので同時に掲載してくださいな。

 2番目の「南原繁と憲法九条」は、1番目の番組の中で集団的自衛権の部分かなんかの時に半藤氏がちらりと「南原繁は9条には別の考えがあった」というようなことを言ったので気になって調べた結果で、最初から1番目の記事と関連性を意図して持たせたわけではありません。結果としては似たようなことを言っているな、と密かに思っているだけです。
 なお、1番目の記事は今回に合わせて加筆しています。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------

   2つの報道番組(1542) 2015.1.12作成 2015.1.14掲載

どちらもBSですが、プライムニュース(フジ)と週刊BS-TBS報道部(TBS)で戦後70年を考える対談をしていまして、フムフムと両方録画しました。
プライムニュースの方は1/5に放送されたもので、戦争突入の理由などを半藤一利氏(作家)と加藤陽子氏(近代史 東大大学院教授)に聞くというものでして、もう一方の1/10送の-TBS報道部のテーマは「あの戦争をどう伝えるのか」というもので出演者は保阪正康氏(作家)と半藤一利氏(作家)で、半藤氏は両方の番組に顔を出していました。

でまあ、感じたのはTBSの方が司会者の姿勢が、根拠の説明もなくあの戦争は間違いだったという決めつけということと、戦争証言は軍隊のどの階層から多いかという説明ボードで縦軸に階級、横軸にポジション(戦場、大本営など)で、左官以上の高級将校は大本営という軍の編成を無視した決めつけがされているところに大きな違和感を感じました。
というのは、陸軍師団の大隊長は中佐、連隊長は大佐、師団長は中将だったし、軍や方面軍司令官は大将などでしたのでこの番組でいう高級将校も大本営という後方ばかりにいたわけでありません。
最前線で兵士とともに苦労をしたという将校もたくさんいたということで、例えば凄惨な大失敗となり参加3個師団の師団長は全員、軍命令違反により戦場で更迭という異常事態となった陸軍のインパール作戦に関するドキュメンタリー文学を読むと、将校も結局は人間としての出来なんだなあと実感するわけで、さすがにTBS、自分達の主張(思い込み)に合うように番組を(安易に類型的に)組み立てているな、ということがありありと分かりました。

さらに言えば、そのへんのことを熟知しているはずの二人の戦史作家も一言も違うとも言わず、補足説明もなし、ということでして戦史作家として高名なお二方にも失望しました。悪く言えばこの番組は軍隊とか戦争に無知な人達を騙していますね。
ただし、戦前の政府(軍部)は戦争の悲惨さを国民に知らせなかったとか、天皇も欺いて戦争に突入していったといったお話は、確かにその通りなんでしょうね、ということであり、BS-TBS報道部の番組の問題はその感情的(幼児的、女性的)なスタンスにあるのかな。

つまり、戦争をどのレベルで語るのかという部分で、戦場の殺し合いとか原爆、東京大空襲などの一方的虐殺という悲惨な面で戦争を見ていけば100人中100人が反対するのは当たり前、一方で政治や経済、外交といった国家運営と戦略というスタンスでは、戦争は国家意思表明の一手段として国際的にも認められているというか、どの国も持っている正当な権利(生存権)ということなので、戦場などの悲惨な殺し合いへの嫌悪、反対という観点で国家の運営を見るというのは筋違いで国を誤るのではないかと思うのです。

憲法9条では国権の発動たる戦争は放棄(1項)になっていますが、ここでいう国権とは、国家権力なのか国家の権利なのか。
TBSのスタンスは赤紙葉書一枚で召集し兵隊の命は一銭五厘(当時の葉書料金)で軍馬以下、といった国民に対する有無を言わせぬ国家権力的な見方をしていて、なので戦争反対ということかなと思うのですが、一方、国権を国家の権利と見ると、日本は9条で国際的に認められている権利の一つを自ら進んで放棄したということになりますが、こちらの国家の権利という観点で戦争の是非を論ずることは決して否定すべきことではなく、現実対処の一手段として必要と思うのです。

で、戦後70年で我々が考えないといけないのは、国家の権利の発動たる戦争でいかなる理由でその権利の主張が正当であったのか、戦争という悲惨な結果を招く最終手段をどうして回避できなかったのか、など戦前の日本の思考と行動を検証し何を教訓とするのか、ということであって、戦争の悲惨さが主になってしまうと話は感情論から離れられないので、それだけではあまり意味はないというか、戦争はダメ、という結論は見えているし誰も反対しないことなので、感情論から戦争を論じても結論は明らかであまり得られるものはないと思うのです。かくいう私も戦争は絶対反対ですよ。

ということで、TBSの番組はある意味、子供だましで相変わらずの正義ぶった偽善的・結果論的な観点から作った「物語」かなと思った次第。どうせ正義ぶるなら東条首相などいわゆるA級戦犯に留まらず、当時の国家指導者たちを一網打尽にして調べ上げて戦争責任(自国民殺害や財産破壊など)を追及する番組を正々堂々とやったらどうだと言いたい。昭和天皇の戦争責任を含めてね。右翼連中が怖くてそこまでの勇気はないでしょうけど。

一方のプライムニュースはTBSほどの誘導はないように思えます。生番組ですし、司会者のスタンスも意図した結論への誘導的ではないと思いますので、プライムニュースがましかな。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------

   洞察と卓見(1543) 2015.1.12作成 2015.1.15掲載

南原繁と憲法九条

1946年(S.21第90回、帝国議会。6月28日衆議院本会議)

・・・・…第二項目としていわゆる戦争抛棄の条章にしてでございます、これは新たに更生しました民主日本が、今次の不法なる戦争に対する贖罪としてでばかりでなく、進んで世界の恒久平和への日本民族の新たな理想的努力を捧げるその決意を表明するものとして、我々の賛同惜しまざる点でございます、

殊に此のことは、古来幾多の世界の哲学者乃至宗教家の夢想し、構想して参つた理想が、はしなくも我国の憲法に於いて是が実現されるものとして世界人類史上に新たな意義を持つものとして我々は之を重大に考へるものであります、

それだけに問題があることを又私共は考へなければならぬのであります、理想高ければ高いだけ、それだけに現実の状態を認識することが必要でございます、
さうでなければこれは単なる空想に終るでございませう、本案が発表されました当時に「アメリカ」の新聞の批評の中に、是は一個の「ユートピヤ」に過ぎないと云ふことがありましたことは、兎角我々の反省すべき点であると思ふのでございます、戦争はあつてはならぬ、是は誠に普遍的なる政治道徳の原理でありますけれど、遺憾ながら人類種族が絶えない限り戦争があると云ふのは歴史の現実であります、

従って私共は此の歴史の現実を直視して、少くとも国家としての自衛権と、それに必要なる最小限度の兵備を考へると云ふことは、是は当然のことでございます、吉田総理大臣は衆議院に於けるご説明に於きまして、是迄自衛権と云ふ名の下に多くの侵略戦争が行はれて来た、故に之をいってきするにしかずと云ふ御説明であるやうでありますが、是は客観的に其の正当性が認められた場合でも、なおかつ斯かる国家の自衛権を抛棄せむとせられる御意思であるのか、即ち国際連合に加入する場合を現在の草案は予想して居ることと考へますが其の国際連合の憲章の中には、斯かる意味の国家の自衛権と云ふことは承認されて居ると存じます、
尚又国際連合に於きまする兵力の組織は、特別の独立の組織があると云ふことでなしに、各加盟国がそれぞれ之を提供すると云ふ義務を帯びて居るのであります、

ここに御尋ね致したいのは、将来日本が此の国際連合に加入を許される場合に、果して斯かる権利と義務をも抛棄されると云ふ御意思であるのか、斯くの如く致しましては、日本は、永久に唯他国の好意と信義に委ねて生き延びむとする所の東洋的な諦め、諦念主義に陥る危険はないのか、むしろ 進んで人類の自由と正義を擁護するが為に、互に血と汗の犠牲を払ふことに依つて、相共に携へて世界恒久平和を確立すると云ふ積極的理想は却て其の意義を失はれるのではないかと云ふことを憂ふるのであります、

それのみならず現在の国際政治秩序の下に於ては「アメリカ」国の或評論家が批評致しましたやうに、いやしくも国家たる以上は、自分の国民を防衛すると云ふのは、又其の設備を持つと云ふことは、是は普遍的な原理である、
之を憲法に於て抛棄して無抵抗主義を採用する何等の道徳的義務はないのであります、又何れの国家に於きましても、国内の秩序を維持するが為には、警察力だけでは不十分であります、本来兵力を維持する一つの目的は、斯かる国内の治安の維持と云ふことも考へられて居るのであります、

殊に日本の場合には、将来を想像致しますると国内に於きまする情勢の不安、其の状態は相当覚悟して居らなければならぬと思うのであります、政府は近く来たらむとする講和会議に於て、是等内外よりの秩序の破壊に対する最小限度の防衛をも抛棄されると云ふことを為さらうとするのであるか、此の点を御尋ね申し上げたいのであります、若しそれならば既に国家としての自由と独立を自ら抛棄したものと選ぶ所はないのであります、国際連合は決して国家の斯かる自主独立性を否定して居りませぬ、寧ろそれを完全なものにする為に、互に連合して、世界に普遍的な政治秩序を作らうと云ふのが其の理想であります、

国務大臣(吉田茂)

・・・・・・又戦争抛棄に付て、将来国際連合にいる意思であるか、或は自主的、自衛的の戦争をも抛棄したのであるかと云ふ御尋ねでありますが、今日は日本と致しましては、先づ第一に国権を回復し、独立を回復することが差迫つての問題であります、
此の国権が回復せられ、さうして日本が再建せられる此の目下の差迫つた問題を政府は極力考へて居るのでありまして、万事は講和条約或は国家の態勢が整ふと云ふことを、政府として極力其の方向に向つて努力して居る訳でありまして、それ以上のことは御答へ致すことは出来ないのであります、・・・・・・・・・・・・・・・
(以上、第90回帝国議会衆議院議事速記録第二十四号に拠る)

南原繁について

政治哲学者の南原繁は、第2次世界大戦後の1945年末~51年に東京大学総長をつとめ、大学再建に尽力した。この時期の総長演説は広く社会に紹介され、 戦後の混乱期に日本国民への大きな励ましともなった。講和条約の締結にあたっては、全面講和を主張し、それを「曲学阿世の徒」と非難する吉田茂首相と論争を展開した。一方では、日本政治学会の初代会長をつとめ、後進の育成にも力をいれた。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------   」

 以上である。
 さすが勉強家で物知りの友だけあって、たいへん参考になる資料を添えてくれた。感謝している。意見の合わない部分は、今後じっくり検討し合うことにしよう。



nice!(5)  コメント(5)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

友よ、戦争をしない世界を創ろう! その6 [『友よ、戦争をしない・・・』広場]

   真の戦争抑止力とは? また逆の促進力とは?

 では、真の戦争の抑止力とは何だろう。月並みかもしれないが、それは、国民相互が交流を活発にし、理解と信頼を深め合っておくことに他ならないのではないだろうか。そして、互いに要求することがあれば、相手の言い分をよく聞いて、妥協点を見出す以外ないだろう。一方的に主張し合っていたら、結局戦いの準備がエスカレートし、いずれ大戦(おおいくさ)になってしまうのだ。

 ところで、抑止力ではなくて、戦争促進力なるものも考えておこう。それは、民族、あるいは国民同士の感情の悪化を招くことではないだろうか。戦後70年のうちの60年ぐらいは、日本人は近隣諸国と比較的友好的に交わってきたように思う。あるいはそういう面が表に出ていたと言うべきか。それが、近隣諸国の側に反日感情があることがわかり、次第に変わってきた。

 近隣諸国の側に反日感情があるのは、70年前以前の国家間の関係に由来する問題もあろうが、国民の反日感情を政権の維持や安定化に利用しようという目論見で、為政者が故意に増幅したり長期化したりした面もあるであろう。内政問題に外敵や外圧を利用しようとすることは大変危険なことだから、お互いに慎むようにしなければいけないと思う。国民としても、相手国の時の政府の政策を批判することはあっても、他国民そのものを忌み嫌うような感情的な受け止め方は、自制するように心掛ける必要があろう。

 また、日本の側では、村山談話は踏襲しないとか、いややっぱりするとか、慰安婦問題はなかったことだとか、靖国神社を参拝するとか…こうした近隣諸国が神経質になっていることを、政権担当者が敢えて言ったりしたりすることは、近隣諸国民の抱く反日感情を正当化することにつながってしまうことを十分に認識すべきだ。

 友よ、君は靖国神社についても詳しい。その問題点も十分にご存知だ。にもかかわらず、総理や閣僚の靖国参拝に近隣諸国がクレームをつけると、それは内政問題だから、中・韓に言われる筋合いではないと反発する。だが、内政問題にしても、過去の侵略的戦争の反省をしているかどうかを見極める試験紙になってしまっていることを敢えてやれば、それは友好関係を壊そうとしていると相手の目に映っても仕方あるまい。そうなると、「過去の反省がなされていない」と、もうすっかり世代が代わっているにもかかわらず、いつまでもその非をとがめようとし続けることになる。
 こうしたことは戦争を促進する力になりかねない。

 昨今、近隣諸国民に対するヘイトスピーチが問題になっている。大勢集まり、朝鮮人や中国人に対して汚い言葉を浴びせ、国へ帰れとガナリ立てている。真に見苦しい光景で即刻止めていただきたいものだと思っている。ああいう集団的な感情の高まりが、関東大震災直後の朝鮮人虐殺を引き起こしたのだろう。また、ユダヤ人の虐殺に通じるものもある。
 だれだって自分の身に覚えのないことでとがめられたり、体罰を受けたり、ましてや命を奪われたりしたら堪ったものではないのだ。

 なんとなく朝鮮人が、中国人が、この日本でずる賢くうまく立ち回っているように見えて面白くない、人によってはそういう感想を抱いている人もいるかもしれないが、しかし、人は一人ひとりみな違うのだ。✕✕人として一括りにして文句を言われ、冷たくあしらわれたら、言われた側は、何を言い返そうかと思う間もなく、単に訳の分らぬ敵だと思うだろう。彼らは彼らで固まって、身を守り、敵にいたぶられないように身構えてくるだろう。こんなことをしていれば、二つの国民の間の友好関係などはあっという間に崩れ落ちていくだろう。

 君がヘイトスピーチに加わるような人でないことは十分知っているが、今のご時世、そんな雰囲気が急に起こってきたので、なんとしてもやめてもらいたいものだとの思いからこの問題に触れた。
 また、こうした風潮が起こっていることと、政権が右に振れていることとの間に関係があることは間違いないように思う。政権にくすぶっているように見受けられるストレスが、ああいう形で一部の人を動かすのだろう。またその一部の人のストレスを、政権は受け止め利用しようとするのだろう。つまり、相互にエネルギーを与えあっているように見える。
 政権が正しい道を歩むようになれば、あんな見苦しく危険なデモ行進も急速に下火になるだろう。

 よく言われる「抑止力」については、あるように見えるが幻影に過ぎないということを、真の抑止力は友好関係構築にあるということを、また、国民感情の悪化は、悲劇をもたらすたいへん危険な因子だということを述べさせてもらったが、友よ、君も同意してはくれまいか?

nice!(6)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

友よ、戦争をしない世界を創ろう! その5 [『友よ、戦争をしない・・・』広場]

 (すみません、少し長くなってしまいました)

   戦争抑止力について

 戦争抑止力について考えてみよう。私がこの言葉、概念を厄介なものだなあと思ったのは、数年前のこと、核兵器は廃絶するべきか否かというテレビ討論会を見ていた時だった。廃絶するべしという意見の人は、非人道的な大量殺戮兵器だから、どこの国も持つべきではない。持っている国は廃絶に向けた国際協定を結んで、なるべく早くそれを実現すべきだ。概ねそんな意見だった。
 一方、核廃絶に賛成しない人の意見は、核兵器を所有することは他国の攻撃を抑止することになるので、核保有には意味があるとするものだった。
 今、政府が閣議決定した集団的自衛権の行使容認についても、「お互いに助け合える関係になれば、米国と対等なパートナーとして、大国中国を牽制することができるので、集団的自衛権の行使容認は抑止力に成り得る」という意見をときどき耳にする。

 集団的自衛権を行使したところで、アメリカと対等なパートナーになることなどできないことや、アメリカがどこまで本気で日米同盟に配慮するかは甚だ疑問だということなどは既に述べたが、そもそも、こちらが強力な武器を持ったり、強力な仲間と同盟を結んだりすることが、抑止力になるということがあり得ることなのかどうか、そこをじっくり考えてみたい。

 まずは世界の歴史を概観してみよう。
 例えば、第一次大戦は、主にヨーロッパを戦場とする大戦であったが、開戦からさかのぼること32年、1882年にドイツ・オーストリア・イタリアの三国が同盟を結ぶ。それは彼らの平和と安全を守るためだったであろう。これに脅威を感じたフランスは、平和と安全のため、1891年ロシアと同盟を結ぶ。1904年には英仏協商が結ばれる。さらに1907年英露協商も結ばれ、三国協商ができる。いずれも平和と安全と繁栄のために、また万一のときに備えるために結ばれたはずである。
 しかし、結果は、セルビアの一青年がオーストリアの皇太子夫妻を暗殺したことがきっかけとなり、戦火が急速に拡大し、同盟側と協商側の、潜水艦・飛行機・戦車・毒ガスなどの新兵器が投入される総力戦となった。戦火は大きいほど、失われる人命も、破壊される器物も、理不尽な事柄も多くなる。

 第二次大戦を前にした日本はどうだっただろう。世界大恐慌の後、植民地を持つ国々が自国植民地とのつながりを強化していく中、日本は大陸への進出を強める。そして1940年、ドイツ・イタリアと三国同盟を結ぶ。ドイツ・イタリアのヨーロッパでのイニシアチブを承認する代わりに、東アジアや東南アジアでの日本のイニシアチブの承認を目的としていた。当時、東南アジアには、英・仏・蘭の植民地があり、日本は、同地域を日本の生存圏であるとしていた。翌年にはソ連と中立条約を結ぶ。
 こうした同盟や条約は、もちろん日本の平和と安全と繁栄を維持するためにされたことだが、結果は、英・仏・欄の他、態度を決めかねていたアメリカをも決定的に敵に回すことになる。アメリカは石油輸出を制限するなど経済制裁を強化し、英・欄もこれに加わり、既に対戦中の中国を含めた、いわゆるABCD包囲網が築かれることになる。包囲している側は、日本の軍事行動を抑え込むことが目的であり、戦火拡大の抑止力となると思ったであろう。
 冷静に考えれば石油の約8割を頼っていたアメリカの経済制裁が続く以上、国威を発揚することなどほとんど見込めない状況になったわけだが、この包囲網が日本を窮地に追い込み、追い込まれた日本は「今、開戦しなければジリ貧に陥っていく」つまり「窮鼠猫を噛む」の心境で太平洋戦争に突入していく。

 同盟を結ぶことや、戦力を強化することが、どのように戦争を抑止し、平和と安全に貢献するというのだろうか? 傷口を広げただけではないだろうか?

 日本の戦国時代を見ても、これらが抑止力にならないことは容易にわかる、と言えるのではないだろうか?
 駿河の大大名、今川義元が2万の大軍を率いて尾張攻めをする折、織田信長が桶狭間で本陣を急襲し義元の首を獲ってしまう話はあまりにも有名だが、大軍は抑止力にならず、脅威を感じる側は、僅かの隙を狙うことになる例と言えよう。
 戦国時代は数々の同盟が結ばれるが、いくら大きな同盟関係を作っても、抑止力にならないことは、関ヶ原の合戦を見れば明らかだろう。石田光成、徳川家康が、それぞれ味方する武将を募り約8万もの兵力を集めたにもかかわらず、どちらもひるむことなく、合戦を繰り広げることになる。
 大衆が背負うリスクがどんなに大きくなっても、野心家の判断を揺るがすことはなさそうだ。平気で、天下を二分する戦いをやってしまう。それほど野心家の野心は大きい。称えて良いのか、呆れて良いのか、とにもかくにも、一部の人間は極めて勇猛なのだ。
 もう少し真面目に考えてみると、他人の人生や不幸に責任意識が働かない人にとっては、巻き込まれる人の数や不幸の質は、眼中にないのだ。気になるのは、自分と一族の命と権勢だけ。懸けるものは精々それだけなのだ。それさえ懸ければ、あとはどんな大きなことでもできてしまう。これは称えることではないし、勇敢と言えることでもない。恐るべき、そして警戒すべき、一部の人間が有する狂気とも言える心理だ。

 常人の心情を当てにして「抑止力になる」と思ってはいけないと、歴史は教えているものと思う。今や人類は、人類の大半を殺傷し、文明を破壊してしまうほどの兵器を持つようになってしまった。私たちは善き指導者を選ばなければならない。と同時に、負けないための、ということは勝つための戦争準備を、抑止力になる安心材料と信じることも止めなければならないということではないだろうか。
 そう信じることは、振り込め詐欺の言葉を信じて、大金を急いで銀行に振り込みに行くようなものである。戦争の準備をしてこちらのほうが強いのだという見かけを作ることは、決して戦争の抑止にはならない。相手の準備を加速するだけなのだ。
 戦争に負けない備えをすることが無用と言うわけではないが、それはそれとして、他国を当てにせず、自国民の穏やかな生の営みを守るに必要な限度を考えながら、国民合意の下、自力で静かにやることではないだろうか。

 真の抑止力とは何かを、次に考えてみよう! (その6 に続く)

 
nice!(2)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

友よ、戦争をしない世界を創ろう! 番外 [『友よ、戦争をしない・・・』広場]


   友からいただいたメール第二弾

 昨年の暮れも押し迫った28日、あの友から次のメールが届いた。文頭に「ついでにこれもお使い下さい」とある。彼のブログからのコピーのようだ。

 -----------------------------------------------------------

なんだかドタバタしていたのとネタ切れでついに10日ほど空けてしまいました。原則日々更新が唯一の取り柄のこのブログ、まことに面目ない次第であります。

さて、そんな言い訳をしているうちに今年も最後、最終号となってしまいました。で、月並みですが今年一番印象に残ったというか気になったことを書きたいと思います。
それは沖縄についてです。

沖縄のいわゆる民意は今や反政府、反本土になっているようです。嘉手納の辺野古移設にもともと賛成だった人が反対を唱えて知事になったり、総選挙では小選挙区選出で自民党議員が全滅したりということがその証拠ということですが、わが政府もそれならと、どうも沖縄振興予算を減額するという正面対決になりつつあります。なんでこんな馬鹿なことを政府がするのか全く理解できません。
そんなことをして何が得られるのでしょうか。密かに沖縄侵略を目論む某大陸帝国を喜ばせるだけの愚策で安倍政権のおごりここに極まりではないか、とわが怒りは、怒り心頭に達しております。

70年前の沖縄戦敗戦時、当時の海軍司令官だった太田少将の「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という有名な電文があります。
要するに「内地」の人間は沖縄の人達に多大な借りがあり、戦後も長らく米軍軍政下で米軍基地があるがゆえの度重なる屈辱と被害を受け続けてきました。

先ほどの「沖縄県民斯ク戦ヘリ・・・」だけではぴんとこないので、長くなりますが電文全文の現代語訳をウキペディアから転載します。(なお訳文には複数のものがあるとのことです)

「沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。
残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。
その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。」

というもので、今もって涙無くしては読めるものではありません。沖縄県民に感謝あるのみではありませんか。
さて、現在、沖縄の心に一番沿っているのは他でもなく天皇皇后両陛下だと思っています。最初の両陛下(当時は皇太子ご夫妻)沖縄初訪問時には、ひめゆりの塔参拝時に沖縄左翼団体(沖縄人自身による沖縄解放を掲げていた沖縄解放同盟準備会)の者から火炎瓶を投げられました。
両陛下はこれにひるまず、今年11月のご訪問まで都合10回の沖縄訪問をされています。私は寡聞にして日本国首相の沖縄訪問回数は知りませんが、恐らく10回も訪問した首相はいないのではないでしょうか。

まあ、こういうことを書くと、いつまで沖縄人を甘えかしているのだ、というような批判を受けるかも知れません。結局は彼らも「金目」さと言う人もいるにちがいないでしょうけども、私は沖縄と内地のつながりの原点は、この太田少将の電文であり、両陛下の沖縄への思いであると思っています。

また、国民を思う統治者の器とはこういうことではないでしょうか。安倍首相閣下もかくあっていただきたいものであります。(この文は首相官邸に意見として投稿しております)

 -----------------------------------------------------------

 さすが友は勉強家だ。感性も鋭く、打てば響く心の持ち主だ。「彼に呼び掛けることは決して無駄ではないぞ」との確信が一段と強まった次第だ。


nice!(5)  コメント(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

友よ、戦争をしない世界を創ろう! その4 [『友よ、戦争をしない・・・』広場]

   続:日米同盟に頼ることの弊害

 ことは評判だけの問題ではないぞー、実際に活動が始まれば、第一、金がかかるだろう、隊員の身の危険も増えるだろう。
 自衛隊の活動範囲は、やはり国内に留めるべきではないだろうか、あるいは、国民の生命・生活を守ることに限定しておくべきではないだろうか? その歯止めが崩れると、どこのどんな紛争現場に引っぱり出されるか、役割分担が回ってくるか、知れたものではないだろう。
 そうなれば隊員のなり手も減るだろう。そうなれば、徴兵制が必要にもなるだろう。現行の、職業選択の自由としての自衛隊員の構成が、どのくらい善いことか、ちょっと想像してみようではないか。
 今でも大規模災害発生時には、隊員たちが、二次災害を警戒しつつ、組織的に献身的な活動を繰り広げている。彼らは、公共的な仕事を担う職業人として誇りを持って力強く活動しているように見受けられる。それが、徴兵制となった暁には、命がけの仕事が、自由意思に反して行われるようになるのだ。意に反したことに身の危険を懸けなければならなくなる。しかも、懸けるのは身の危険だけではなくなってくる。
 健全な社会の仕組みが、途端に180度違う不健全なものに変ってしまうのだ。副作用の懸念は尽きない。

 そんな向かう先が見えない政治家はあまりいないのではないだろうか。ではなんで承知していてそこに向かおうとするのだろうか?
 おそらく、そこまでしても、自分の国の権力を握っていたいのではないだろうか。そして、他国の権力者から日本の権力者として尊重され、頼りにされたいのだろう、隣国の脅威を過剰に演出してまでも。
 あるいは、国家のために、生活を、生命を投げ打って尽くし合う、戦前・戦中の全体主義社会に郷愁を感じていて、それを再現したいのだろうか? そういう病的精神の持ち主が、比較多数派の政党の総裁の座に就いてしまったのだろうか。

 代償は、みな、国民が負担する金と労力、下手をすれば命なのだから、たまったものではないではないか、そう思うのだ。
 
 また、こんなたとえもできるのでは…。
 日米同盟強化という方針は、真面目な子どもが、何かと言いがかりをつけてくる友達に脅威を感じて、番長グループに仲間入りするのと似ていないか? そこに入れば後ろ盾ができるから、他の友だちがおいそれとちょっかいを出せなくなる。しかし、反面、番長の使い走りをやらされるようになるかも知れないし、別の番長グループとの抗争に巻き込まれて、もっと危険な思いをするかもしれない。

 ここは冷静に正しい身の処し方を考えようではないか。
 正解は、多数の一般生徒との交わりを密にして、多数の目で、物事の公正な進行を実現していくことではないだろうか。
 国際社会にあっては、約120もの国が加盟する、国際連合を中心に活動することではないだろうか。かつての日本の外交方針はそうだったはずだ。それが、米英の、国連安保理の決議が調わないまま始めたイラク戦争に日本が加担した時から、その原則が無くなってしまったように思う。時の総理は小泉純一郎氏、「どこが戦地か戦地でないか、私に聞いてもわかりっこない」とかなんとか、とぼけたことをおっしゃっていた。

 原則がどんどん揺らいで行っている。
 もっと、安全・平和を重視して、まっすぐその方向を目指そうではないか!
   (その5に続く)

nice!(7)  コメント(2)  トラックバック(1) 
共通テーマ:日記・雑感

友よ、戦争をしない世界を創ろう! その3 [『友よ、戦争をしない・・・』広場]

    日米同盟に頼ることの弊害 

 理由の二つ目は、隣国に脅威を感じる余り、集団的自衛権を行使するなどして、軍事大国アメリカにさらに接近しようとする姿勢にある。これも、効果よりも弊害のほうが大きいと思えるのだ。君も「同盟国のアメリカさんも今の政権は全然頼りにならない」と指摘されているとおり、効果はあてにならず、弊害が懸念されて仕方がない。(君は「今の政権は」と断りを入れているが、共和党政権に代わっても大差はないように思う。)

 まず効果だが、アメリカが日中関係が悪化した折、どれだけ日本のために行動してくれるかについては、アメリカの立場を考えて推測するしかないと思う。
 アメリカは第二次大戦後、まずはソ連の太平洋や朝鮮半島への進出を警戒して、日本に軍事基地を造り維持してきたと思う。共産党支配の中国も当然警戒の対象であった。やがて友好同盟国の日本の工業製品がアメリカ経済を圧迫し始めた。日本の国防費が少ないことに不満を感じ、軍事予算の肩代わりを日本に求めるようになってきた。ソ連崩壊、東西冷戦終結後、ロシアの脅威が減る一方で、中国が経済的、軍事的に台頭してきた。経済の発展は、中国を、アメリカの貿易相手国として、また国債の引き受け手として、重要なパートナーにしつつある。軍事的な発展また海洋進出はアメリカにとって脅威であり、警戒しつつ慎重に監視している。
 こんな大雑把な分析(?)では君はいささか不満だろうが、アメリカが東アジアを見る眼は、およそそんなところではないだろうか。

 さてそんな状況下で、例えば尖閣列島をめぐって紛争が起き、日中が局地的に戦火を交えるようなことになったとき、欧米がどう動くかと想像してみると「まあまあ止しましょう」と言いつつ、本気で日本の味方をしたり、仲裁の労をとったりすることは、たぶん、どこの国もしないと思う。局地的な軍事衝突である限りは、しばらくは高みの見物を決め込むのではないだろうか。どちらかが余程紳士的あるいは民主的に振舞わない限り、GDP2位と3位の喧嘩は、東洋人の知恵と政治力を観るうえでも、「静観」が賢明と判断するだろう。
 もしそうではなく、各国がどちらかの側に着くようなことになると、大戦争へ発展しかねないので、そんなことは期待しないほうが良いと思うのだ。
 アメリカは日米安保があるし、日本の軍事基地を維持したい都合があるので、日本国民が腹を立てない程度には味方をするだろうが、本気で中国と渡り合うことが国益に叶うという結論は、おそらく出ないだろう。
 いくら集団的自衛権を行使して、日ごろから軍事行動を共にするようにしても、中国とどうかかわるかについて日本にお付き合いすることは期待できないと、わたしは思っている。だから、効果はあまり期待できない。

 一方、弊害・副作用のほうはたくさん見込まれ、ほとんど確実に起こると言ってもいいのではないだろうか。
 日本は、平和憲法を持ち、軍隊も自衛に限った戦力しか持たず、原子爆弾の唯一の被爆国として非核三原則を掲げてきた。軍事力ではなく、物や技術やサービス、文化で世界の発展に貢献してきた平和国家という印象が強い。宗教的にも寛容な民族で、根深く敵対する国は無いと言ってもよいのではないだろうか。

 一方アメリカは、世界に冠たる軍事大国で、全世界の軍事バランスに眼を光らせる西洋発資本主義文明の盟主であり、その実、理念よりも国益を重視する国であることも知られている。世界秩序の維持という点では重要な役割を果たしていると言えるかもしれない半面、9.11の報復として、アフガンやイラクに進行するなど、攻撃的で敵が多い国であることも否定できない。

 それほど色あい、イメージの違う国が、軍艦を並べて行動することにどういう意味があるのだろうか?アメリカは、世界の警察として、その活動量を増やしたり、自国の負担を減らしたりすることができるだろうが、日本の平和国家としてのイメージはどうなるのか、それが薄らいだら、それが疑われ始めたら、そのことが受けるダメージは測り知れないほど大きいのではないだろうか?それが心配だ。
 対韓国・北朝鮮、対中国を意識して始めたことで、世界のあちこちに敵を作ってしまうことになりかねない。矛盾していないだろうか?

 ことは評判だけの問題ではない、実際に活動が始まれば…(以下は「その4」で)

 明けましておめでとうございます。
 ハイリスク、ハイリターン(ノーリターンの可能性大)の運営ではない、穏やかで着実な社会運営を実現したいものですね。みんなで頑張りましょう。
 今年もよろしくご指導のほどをお願い致します。
 末筆ながら皆様のご多幸をお祈り致します。
nice!(5)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感
前の10件 | 次の10件 『友よ、戦争をしない・・・』広場 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。