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いじましい? [日本考]

 5日もご無沙汰してしまいました。お伺いするほうも滞っています。申し訳ありません m(_ _)m
 いい歳をしてまだ自分の時間を上手に作れず苦戦しております。
 今日はちょっとばかりできました。取り急ぎ、これは捨て置けないぜってことに触れます。

 それは、我が国宰相の
「こんないじましい文章を66年間もよく大切に拝んできましたよね」と
「『核で報復をされる』これが抑止力になる」という majyo さんのところでお目にかかったご発言です。

 どちらもとても堂々と言える議論ではありません。それを首相ともあろう人が堂々と言っちゃっているのです。
 こんなお考えを放っておいていいものかどうか・・・? マスコミの皆さん、国民の皆さん!

 まず前者から。いじましい文章とは日本国憲法のことです。特に前文や九条を指していると思われます。
 戦争に負けて強制的に変えさせられた憲法ですからね、押し付けられて、不承不承受け入れた憲法という面もないわけではありません。

 しかし、大半の国民がこの「いじましい文章」を半世紀以上「大切に拝んで」きたのです。それは厳然たる事実です。
 それはなぜか?

 作らせたアメリカの洗脳も働いていたかもしれませんが、そんな工作よりも、戦争に懲りた日本人のそれまでの国のあり方に対する反省があったことは間違いない事実です。私は戦後の人間ですが、親たちの世代からそれは十分伝わってきました。国民の多くが、戦後の体制を喜んで受け入れたのです。

 天皇と臣民という国のあり方、思想信条・表現の自由のなさ、大陸に軍隊を派遣し軍事力で国益を得ようとする姿勢、国民の命と生活を顧みずただ奇跡が起こるまで戦争を続けようとした指導者の決断力のなさ・・・こうしたことの反省が重々働いたことは間違いありません、また当然のことです。

 大日本帝国憲法は改める必要があったのです。戦勝国に押し付けられたいじましい憲法だと受け取る人は、戦前を、あの戦争を肯定している人たちです。当時生きていれば戦争を推進したに違いない人たちです。

 戦直後にはこのような意見は聞かれませんでした。それは、そのような説を唱えれば、戦争責任が問われかねないからです。口を噤んで鳴りを潜めていたのです。半世紀以上たって、ほとぼりが冷めた頃を見計らって、少しずつ言い始め、次第に声高になっていったのです。卑怯です。

 戦場の、爆撃下の、戦時体制下の・・・人々の苦しさ、辛さ、悲しさ、惨めさ、空しさ・・・を想像できない人が戦争を前提とした国の在り方を肯定し、準備に勤しむのです。そんな人から見ると、戦争放棄や軍隊を持たないことを宣言した日本国憲法は「いじましく」見えるのです。

 そんなに戦争を肯定して、戦前の日本を礼賛してどうするのですか?
 戦争を気安く語るのは、戦場に行かない特権階級の発想にすぎません。戦争は兵隊蟻にさせるものと思っているからこそ気安く戦争を想定するのです。

 ともかく彼らは戦前の体制を否定しません。戦前に戻そうとさえしています。国家に戦争はつきものと思っています。戦争できないというだけで「いじましい」と思い、なんでこれを拝んでいるのかと疑問を投げかけるのです。

 国際紛争を解決する手段としての戦争を認めると歯止めが利かないのです。あれやこれやの理由で戦争が始まるのです。始まれば、勝つまで一致団結するのが国民の務めとなるのです。

 これを認めないことは、「いじましい」ことなどではなく、日本国民の堂々たる権利であり、意志なのです。
 これは自衛権まで放棄するものではありません。自衛をしなければ国を維持存続させることができませんからね、これは自明の理です。

 「いじましい」と言えば、憲法も国民の権利も主張できない地位協定を他国の軍隊と結ばされている国の総理大臣が、先方の大統領閣下と接待ゴルフをしている様のほうが余程「いじましく」ありませんか?
 黒を白という人たちですから、「いじまし」論争も、パワハラで乗り切るつもりなのでしょうね。

 「『核で報復される』ということが抑止力になる」というご発言に対する異論反論は次回といたします。

 おまけの写真を3枚
 今日、こんなお寺さんで法事がありました。
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 前の草むらに
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 赤とんぼとモンキチョウがいました。鮮明には撮れませんでした。

 

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